前回の続きです。
人は「何か」を見ようとしますが、実はそこに見えるのは「何もない」です。
ここが根本的な違いだと思います。
人はそこに「何か」を見つけようとしてしまうのです。
でもそこにあるのは「何もない」だから、いつまでたっても「見えない」となってしまいます。
「何か」はないかもしれませんが、「何もない」はいつも見えています。
しかし、それこそが「それ」だと気づかないのです。
見たいという衝動が起こって、見ようとする。
「どれ?どれ?どれのこと言ってんの?」
探しますね。
しかしそれは「ない」なので、見つかるはずがありません。
…
「ないものが見えるなんて、そんなことある?」
はい、いつものことです。
それは見えないですね?
「はい」
見えないですよね?
「はい」
つまり、見えないを見ていますよね?
「は……、ん? ……はい、ある意味見えないを見ています」
じゃああなたが見ているそれは、何ですか?
「見えないです」
あなたは見えないものを見ているとおっしゃるわけですか?
「はい、見えないを見ています」
それって何に見えますか?
「見えないのでわかりません」
それって何かですか?
「いや、なんでもありません」
「何かであるはずがありません」
「だって『何でもない』なので」
…
見えるということを、なにかがわかる、なにかをつかむ、というふうに捉えているかもしれませんが、それは「ない」なので、わからないし、つかめません。
わからないし、つかめないのは、いつもの状態ですね。
たまに、わかったり、つかめたりします。
わからないし、つかめないのは、むしろデフォルトの、いつもの状態です。
それのことです。(笑)
そのデフォルトの状態から、たまに「ある」が顔を出したり、ひっこめたりします。
「ある」は、あったりなかったりしますが、「ない」はいつもないですね。
その、たまに顔を出したり、ひっこめたりする「ある」をつかんでくださいという話ではなく、その「ある」が出たりひっこんだりする場の「ない」を見てください、ということです。
いつもの、わからないし、つかめてない状態。
「何もない」の状態。
それです。
それをつかんでください。(笑)
わかろうとするから、つかもうとするから、つかめません。
それはわかるものでも、つかむものでもないからです。
そのわからなさをわかってください。
つかめなさをつかんでください。
とんちですか?
ある意味そうですね。
ある意味禅問答みたいなもんですね。
しかしながら、言葉で説明するとしたら、そういうことです。
それは「見る」ものではありません。
なにしろ「見えない」ので。
見えないものを見る。
どうしたらよいか。
見えないということに気づくことです。
「いや見えないよ、だから何?」「見えないことの何がそんなにすごいの?」
すごくもなんともありません。
何かすんごいことを期待しているかもしれませんが、何もないことがすんごいはずがありません。
だから見逃します。
なにかすごいこと、「何かがある」と期待して見るから、見逃します。
何しろそれは「何でもない」なので。
何でもないはいつも見ていますね。
何でもないはいつものことですね。
それのことです。
コメント
何もいらんと心底思えないといかんのか。
なかなか難しいと思いますが、そう思えるようになるしかないんすね。
コメントありがとうございます。
「そう思えるようになるしかない」という呪縛から抜け出すしかないですね。(笑)