「気になる」からこそ悩みが発生するという話をしましたが、本来の自分でいると、周りのことが気にならなくなります。
現実の出来事が、自分に対してどんどん影響力をなくしていきます。
今は現実のいろいろな出来事が自分に対して何かいろいろの影響を与えてくるという感覚があるかもしれませんが、自分自身でいると、具体的な現実がどんどん霞んでいきます。
どっちでもいいというか、何でもいいというか、そもそも気に留めるという発想がないというか。
ただ現実というスクリーンが目の前に展開しているだけであって、そこから矢が放たれて自分に突き刺さるとか、そんなことはあり得ないわけです。スクリーンですから。
すなわち、現実が何か自分に影響を及ぼすとかは全て「そんな気がする」というだけだったわけですが、渦中にいるとそのことはわかりません。
妄想に入り込むのをやめないといけないわけですが、じゃあどこに入り込むのかといったら、自分自身です。
自分の感覚に深く入り込めば、周りの現実は霞んでいきます。
「いやいや、現実に、地に足をつけて生きていかなきゃならないでしょ」という声が聞こえてくるかもしれませんが、そんな声よりも、自分の感覚が何と言っているかに耳をすませます。自分の内側から湧き上がる声です。
自分の声を聞かず、世の中で言われていることや親や友達や上司に言われたことなどを優先することは、自分を低めることです。自分を後回しにすることです。
自分を後回しにしたまま自分の人生を生きることは不可能です。
自分というものが、最初の地点であり、最終地点であり、それしかないものです。
自分の声を聞くとは、自分の感覚がどう感じているかを感じる、ということです。
自分の感覚は、いつも何かを感じています。それを感じるのです。
非常に繊細な作業であり、慣れない作業かもしれませんが、そこには自分自身を生きるという道があります。
自分が生きている意味を、そこから知ることができます。そこに正解があります。
周りのことが気になって仕方がない、あるいは、自分は何か問題を抱えているという気がしている。
そういった、生きることに不自由さ、窮屈さ、あるいは苦痛を感じているとしたら、自分自身の中に、その解決策があります。
自分自身が、自分自身であることを許す。
これ以上に大事なことがありますでしょうか。
許されるとホッとしますし、安心感や安堵感を覚えます。
おそらく人は何かしらの制限を自分自身に課していると思われますが、それが何かの拍子で解けたとき、解放感を味わいます。
「あ、これでよかったんだ」って。
こんな服は自分には似合わないとか、この場面でこんなこと言っちゃダメだとか。
人は何かしらの制限を自分自身に課しています。
本来無である宇宙において、これは良し、これはダメと決めているのは、自分自身の観念以外にありません。
制限を解き、許可を与えると、そこには得も言われぬ解放感と喜びがあります。
「感じていること」がそれを教えてくれます。
そこには抑えつけられた居心地の悪さがあるのか、それとも解放された喜びがあるのか。
本来の自分自身の在り方に許可を出すこと。
これに専心していると、周りのことは霞んでいきます。何に悩んでいたのかわからなくなるくらいに。
満たされた感じを感じていると、何かが欲しいという感覚が薄れます。
何かが欲しいとは、満たされてないから欲しいと思います。
すでに満たされていれば、もう何かで満たす必要はありません。
ですから、周りに期待することもなくなります。
期待がなくなると、期待外れもなくなります。
もはや、誰かや何かに頼る必要がないのです。
自分のみで、解決します。
「感じ」がすべて、ということです。
「何を感じているか」が。
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