人間、生きていれば「いい時」もあれば「悪い時」もあります。
「いい時」「悪い時」から「いい、悪い」を抜くと、「時」だけが残ります。
つまり、「時」だけは、いついかなる時も共通しています。
いい、悪い、普通。
いろんな状態を呈しはしますが、「時」だけはいついかなる時もあります。
それはキャンバスのようなものです。
その上にいろんな絵が描かれます。
何億円もする有名画家の大作から、無名の子供の落書きまで。
喜怒哀楽、軽重高低。
その上でいろんな展開を見せますが、キャンバス自体は変わりません。
どんな人生がその上に展開しようが、キャンバス自体はどれも一緒です。
我々は普段、キャンバスの上に描かれている絵だけに注目しています。
100万円を100人に配ってしまうような人生から、汗水たらして働いても全く報われない人生まで。
人生の内容、ストーリー、いい悪い、喜怒哀楽。
表面に見える部分にだけ、注目しています。
それらのベースとなるキャンバスの存在は、全く気にも留めません。
何でしょう、そんなキャンバスって。
一体何でしょう。
…
キャンバスは、「全ては等しい」ということを言っています。
その上に描かれる絵は、多種多様だけど、キャンバス自体は全部同じです。
どのような時を過ごしていようと、そこに流れる「時」は、誰にとっても全く同じです。
いい時だろうと悪い時だろうと、時は時であり、誰にとっても変わりがない、ということです。
それって、ただ単に事実ですよね。
好き嫌いの話をしているわけではなく、ただ単に事実です。
キャンバスの上に描かれる絵には、好き嫌いがあります。
ピカソは好きだけど、ゴーギャンは好きではない、等々。
でも、キャンバス自体には、好き嫌いはありません。
キャンバスは、ただ単に、キャンバスです。誰にとっても。
我々は普段、「好き」を求め「嫌い」を遠ざける、という生き方をしています。
頭の中には「好き」と「嫌い」しかありません。
好きと嫌いの二極を行ったり来たりするのが、「普通」の生き方です。
…
では、「事実を見る」。これってどうでしょう?
これは好き嫌いではありません。
二極ではありません。
極はありません。
「ただそれだけ」という話です。
例えば人を見るとき。
我々は人そのものを見ているのではなく、「好ましさの度合い」や、「その人にまつわる気持ちや考え」を見ています。
キャンバスではなく、キャンバス上の絵を見、それに対する感想を見ています。
でも、世界を絵ではなく、キャンバスとして見たら、どうでしょう。
そこに気持ちや考えを乗せるのではなく、事実そのままとして見たら。
それは「つまらない」と思いますか?
つまらないという思いが浮かんだということは、そのことが「面白い・つまらない」の二極において「つまらない側」に位置していると、脳が処理した結果です。
つまり、二極で見ている、ということです。
二極ではなく、無極で見ると、どうでしょう。
そこには見たこともない世界があるはずです。
だって今まで二極でしか見ていないから。
いままで絵ばっかり見てきて、キャンバスそのものなんて、見たことがないから。
でも実際は、いつだって見ています。
絵はキャンバスの上に描かれているのですから、絵を見ているなら、キャンバスだって見ているはずです。
嬉しい時、楽しい時を過ごしているなら、それは必ず「時」の中で展開しているはずです。
…
何も描かれていない、キャンバス。
それは「無」です。
全ては無において、統一されています。
そこには何色もありません。
目に入るのは、もちろん「色」です。
物理的に目に入る全ては、色です。
色の奥に、まっさらなキャンバスがあります。
どんな絵でも、色の奥にはまっさらなキャンバスがあります。
そこにはどんな感情もありません、どんな色もありません。
「無」ですから。
その無を、見てみてください。
事実を、見てみてください。
絵ではなくキャンバスを、見てみてください。
あなたが今まで知らなかった世界を、のぞいてみてください。
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