世界はわからないもの

世界はわからないものです。

それは事実ですね。

素直に、正直に世界を見れば、それはすぐにわかります。

何一つわかることなどない、ということがわかりますか?

 

いま目の前にある、コーヒーカップ。

だれそれに貰ったもの、何色、どこ製、値段はどれくらい。

それらはそのカップにまつわる情報です。

 

何もわかっていません。

ただカップがあり、そして情報があるだけです。

カップそのものは「わからない」であり、それらの情報も「わからない」です。

 

たまたま街ですれ違った人、あなたのパートナー、家族、友達。

それぞれの人にそれぞれの量と質の情報が纏わり付いていますが、その人そのものは「わからない」だし、各人にまつわる情報も、ただ「わからない」です。

 

「わかる」ものなど何一つありません。

まず、そのことを思い出してください。

全ては「わからない」だと。

 

ホッとしませんか?

世界はあれやこれやがある、把握不可能な複雑なものではなく、ただ「わからない」です。

何が起きても、「わからない」です。

何があっても、「わからない」です。

そこにまつわる全ての解釈も、「わからない」です。

なにもかも「わからない」です。

「わからない」だけがあります。

 

 

わからなくてはいけないというプレッシャーは、もうありません。

「わからない」という事実を見てしまえば、もう「わかろう」などという無駄な苦痛は放棄されます。

 

解放です。

 

ここにおいて「わかる」というグリップで構築してきた今までの生き方、そして必死で掴んで守ってきた「自分」なるものは分散し、拡散し、雲散霧消します。

「わからない」の楽さ加減、「無」な感じ、何もなさ、空白。

これを実感してください。

 

「わからなくていい」じゃなくて「わからない」です。

本当はわかるほうがいいけど、わからないんだからしょうがない、じゃなくて、「わからない」こそが真実です。トゥルースです。

 

あれもわからない、これもわからない、全部わからない。

ほら、その真実、今、実感できるでしょ?

今すぐまわりに目をやって、確認してみてください。

 

なんにもわからないですよね?

オドロキですよね。ホントにわかるものなど、何一つないですよね。

このわからなさを、なぜ今まで見過ごしてきたのか、不思議なくらいですよね。

 

ただあるものが、あるように、あるだけ。

それだけですよね。

「わかるって何!?」

もうほとんどそんな感じです。

 

この「わからなさ」を実感してください。

 

「わからない」がわかると同時に、自分が消えて、無になるでしょう?

自分だって「わからない」ですよ、もちろん。

名前、肩書、性格、特徴。

それらはコーヒーカップにまつわる情報と同じく、単なる情報です。

 

自分も何も、全てひっくるめて「わからない」です。

わからないがわかれば、もうわかる必要があることなど、何もありません。(笑)

世界は「わからない」において、フラットです。

それが真実でしょう?

それでOKでしょう?

 

 

解放です。最終地点です。

すごくシンプルです。

 

難しく考えるのは、方向を間違っています。

真実を「わかろうとする」のは、見当違いです。

わからなさを見てしまえば、それで終わりです。

 

考えるまでもないこと、考える必要もないこと、考える以前のこと。

 

「考える」は「わからない」を否定することであり、真実から目を背ける行為です。

 

「わからない」という事実をただ見るだけ。

 

何もしなくていいのです。

何かをするから、真実がどんどん遠ざかります。

真実は何かをして「手に入れるもの」ではなく、「すでにそうであるもの」「変更しようがないもの」です。

それをただ見るのです。

「あそっか」と。

 

それで終わりですね。

これ以上もう、何もないですね。

それで、終わりです。

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