考えるのって面倒くさくないですか? 普通に。
考えなくても済むなら、そっちのほうが良くないですか? 普通に。
そして実際、考える必要があることなど、ほとんどありません。
よく考えたら、考えなくてもいいことばかりじゃないですか? 世の中。
考える必要のあることなど、ほとんどありません。
仕事選びも恋人選びも今日の夕飯を何にするかも、ピンときたものにすればいいのです。
よく考えて吟味したものと、パッと選んだものとで、そんなに差はないはず。
いやむしろピンときたものを選んだほうが外れないはず、経験的に。
考えるのは努力するだけムダだったということが、経験的に言ってよくあるはず。
なぜそうやってムダに考えてしまうのかというと、損したくないとか、間違えたくないという思考が働くからです。
エゴが発動しているわけですね。
損しても間違えてもいいなら、いちいち考える必要はありません。
そして、損とか間違いなんてあり得ません。
損や間違いなんてものは、ただの解釈に過ぎないからです。
そんなものは、捉え方次第でどうにでもなります。
つまり幻想です。
真実は何かというと、「それがそうである」ということだけです。
「それ」はそもそも、損でもなければ間違いでもありません。
「それはそれ」です。
損や間違いは、恣意的な付着物にすぎません。
恣意的な付着物は真実ではありません。
そして、我々が目指しているのは、真実です。
だから考える必要はないのです。
…
考えるということは、何かに自分を当てはめるということです。
本来の自分の趣味嗜好を脇へ置き、考えて出した結論に従うということは、そういうことです。
「自分を曲げる」ということです。
考えれば考えるほど、本来の自分から遠ざかっていきます。
本来の自分自身であるためには、考えないほうがいいのです。
あなたが考えている時間。
それは、本来の自分を放棄している時間とも言えるのです。
そして、どれだけ本来の自分にいれるかが、人生の分かれ目でした。
考えていては、本来の自分ではいれないのです。
だから、今考えているかどうかが、本来の自分にいるかどうかの、とてもわかりやすい判断基準になります。
…
人って結構、放っておいたら考え事してますよね。
結構無意識に、何かしら考えてます。
この「無意識」というのが、クセ者ですね。
人が人生を好転させることができない理由は、その方法を知らないということと、知っていてもできないという、この2点です。
方法は「自分自身であること」でしたね。
では「できない」のはなぜか。
それは無意識にいつも通りの生活に戻っているからです。
これはかなり、心当たりのあることだと思います。
何しろ我々は物質世界の中で物質的に生きていますので、放っておいたら物質的な波長に同調しています。
これは「意識的に」変えなくては、変わりません。
放っておいたら、簡単に周りの波長に同調してしまいます。
かなり意識的にならないと、今いる周りの波長から抜け出すことは難しいと、簡単に想像がつくと思います。
だから、「意識」です。
意識することを、常に意識するのです。
そのために「考え事」を捉えることは、非常にやりやすい方法です。
「あ、今考え事をしている」とそれを意識することができたなら、それはすなわち、今自分自身から外れているということです。
とてもわかりやすいです。
「考える」なんて本当はやりたくないはずです。よく考えたら。
そんな面倒くさいこと、無理無理無理。
そんなこと本当はちっともやりたくないはずです。
しかし、今までのクセで、ついうっかりやってしまいます。
そこを敏感に見逃さない「意識力」が、ひとつ自分自身へと戻るためのよいコツになりますね。
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