「考える」ということは、本当は不要じゃない?

考えるのって面倒くさくないですか? 普通に。

考えなくても済むなら、そっちのほうが良くないですか? 普通に。

そして実際、考える必要があることなど、ほとんどありません。

 

よく考えたら、考えなくてもいいことばかりじゃないですか? 世の中。

考える必要のあることなど、ほとんどありません。

仕事選びも恋人選びも今日の夕飯を何にするかも、ピンときたものにすればいいのです。

よく考えて吟味したものと、パッと選んだものとで、そんなに差はないはず。

いやむしろピンときたものを選んだほうが外れないはず、経験的に。

考えるのは努力するだけムダだったということが、経験的に言ってよくあるはず。

 

なぜそうやってムダに考えてしまうのかというと、損したくないとか、間違えたくないという思考が働くからです。

エゴが発動しているわけですね。

損しても間違えてもいいなら、いちいち考える必要はありません。

そして、損とか間違いなんてあり得ません。

損や間違いなんてものは、ただの解釈に過ぎないからです。

そんなものは、捉え方次第でどうにでもなります。

つまり幻想です。

 

真実は何かというと、「それがそうである」ということだけです。

「それ」はそもそも、損でもなければ間違いでもありません。

「それはそれ」です。

 

損や間違いは、恣意的な付着物にすぎません。

恣意的な付着物は真実ではありません。

そして、我々が目指しているのは、真実です。

だから考える必要はないのです。

 

 

考えるということは、何かに自分を当てはめるということです。

本来の自分の趣味嗜好を脇へ置き、考えて出した結論に従うということは、そういうことです。

「自分を曲げる」ということです。

考えれば考えるほど、本来の自分から遠ざかっていきます。

本来の自分自身であるためには、考えないほうがいいのです。

 

あなたが考えている時間。

それは、本来の自分を放棄している時間とも言えるのです。

そして、どれだけ本来の自分にいれるかが、人生の分かれ目でした。

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考えていては、本来の自分ではいれないのです。

だから、今考えているかどうかが、本来の自分にいるかどうかの、とてもわかりやすい判断基準になります。

 

 

人って結構、放っておいたら考え事してますよね。

結構無意識に、何かしら考えてます。

この「無意識」というのが、クセ者ですね。

 

人が人生を好転させることができない理由は、その方法を知らないということと、知っていてもできないという、この2点です。

方法は「自分自身であること」でしたね。

では「できない」のはなぜか。

それは無意識にいつも通りの生活に戻っているからです。

 

これはかなり、心当たりのあることだと思います。

何しろ我々は物質世界の中で物質的に生きていますので、放っておいたら物質的な波長に同調しています。

これは「意識的に」変えなくては、変わりません。

放っておいたら、簡単に周りの波長に同調してしまいます。

かなり意識的にならないと、今いる周りの波長から抜け出すことは難しいと、簡単に想像がつくと思います。

 

だから、「意識」です。

意識することを、常に意識するのです。

 

そのために「考え事」を捉えることは、非常にやりやすい方法です。

「あ、今考え事をしている」とそれを意識することができたなら、それはすなわち、今自分自身から外れているということです。

とてもわかりやすいです。

 

「考える」なんて本当はやりたくないはずです。よく考えたら。

そんな面倒くさいこと、無理無理無理。

そんなこと本当はちっともやりたくないはずです。

しかし、今までのクセで、ついうっかりやってしまいます。

そこを敏感に見逃さない「意識力」が、ひとつ自分自身へと戻るためのよいコツになりますね。

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