人はみんな、どうしたい、こうしたい、こうなりたい、ああなりたいという望みがあると思いますが、そもそもなぜそんなことを思うのでしょうか。
普通にご飯を食って、寝るところがあって、安全に暮らしていれば、とりあえず問題ないはず。
それなのに、そうした望みが出るということは、よく考えてみたら不思議ではないですか?
なぜ私たちは「望む」のでしょうか。
その「望む」の感覚は、水が高いところから低いところに流れるような、何ともいえない自然の力、「勝手にそうなる」みたいな感じがあります。
望みはどちらかというと、「勝手に湧き起こる」みたいな感覚があります。
そんな水の流れを堰き止めたらどうなるでしょうか?
水はどんどん溜まっていき、ある日決壊しますね。
「望む」を止めるのは、自然に逆らう行為だということです。
自然に流れる流れを堰き止めても、やはり自然の力に従い、それはある日、決壊します。
望みは望んだ方がいいということです。
それが自然だということです。
望みを「叶える」ことと、望みを「認める」ことは違います。
望みを叶えなくても、望みを認める、すなわち「望むこと」はできます。
そして、望みは「望む」こともできるし、「止める」こともできます。
望みは望んでいいのです。
叶える必要はないのです。
叶わないなら望んでも仕方ないと、望むことを止めることは、自然の流れに反することです。
叶おうが叶うまいが、望みは出るのだから、それをそのまま認めればいいのです。
勝手に出る望みを、どうせ叶わないからと無理に止めてしまうのは、不自然です。
…
なぜ望みが出るのか。
それはわかりません。
そこに川が流れているのに理由がないのと同じです。
ただ単に、それはそこにあります。
ただ単に、望みはそこにあるのです。
「そうであるもの」を無理に「そうでなくす」というのは、とても不自然な行為です。
望みはただ単に流れているわけだから、ただ単に流しておけばよいのです。
すなわち、「何もしなくていい」ということです。
望みが出るのなら、勝手に出るのだから、勝手に出させておけばいいのです。
なぜそれを無理に止める必要があるのでしょうか。
それはやはり、「叶わない」ということを考えると気分が悪くなるので、その気分の悪さを回避するために「望み」を排除する、ということになるでしょう。
「叶わない」という気分の悪さに、フォーカスしているのです。
しかし、なぜあえて気分の悪いものにフォーカスするのでしょうか。
普通なら、気分の良いほうを選択するはず。
おいしいケーキと、まずい残飯があったら、迷わずおいしいケーキに手を伸ばして食べるでしょう。
なのに、なぜあえてまずい残飯に手を伸ばすようなことをするのでしょうか。
なぜ、気分の悪いほうを選択してしまうのでしょうか。
それは、気分という「目に見えないもの」ではなく、物理的な「目に見えるもの」にとらわれてしまっている、ということですね。
例えば、100階建てのビルを建てたいという望みが出たとき、「いや、そんなの無理だ」という反応が起きます。
それはつまり、「物理的に無理だ」という意味です。
100億稼ぎたいという望み、芸能人と付き合いたいという望み、南の島に引っ越したいという望み。
「いや、無理でしょ」
望みに対して物理的に叶える、ということを考えると、「無理」という反応が起きます。
物理的な目に見えるものにフォーカスをすると、「そんなことできない、できるわけがない」という否定的な気持ちが湧き、気分が悪くなります。
物理的な目に見えるものこそが「実」だと思っていると、その結果実際に手にしている「悪い気分」という本当の実に気づかないのです。
実際にモノを言うのは「気分」です。
目に見える物理的なものではなく、気分こそが「実」です。
目に見える物理的な物事は、それ自体がモノを言う「実」ではありません。
例えば、食べ物において実際にモノを言うのは「味」です。
味がおいしいかどうか。
それこそが食べ物における「実」です。
見た目がおいしそうなケーキでも、食べてみたらそうでもないということもありますし、その逆もあります。
食べるなら、実際においしいケーキでしょうか、それとも見た目がおいしそうなケーキでしょうか。
最初手に取ってしまうのは、「見た目がおいしそうなケーキ」なはずです。
だっておいしそうだから。
しかし、経験を繰り返すうちに、「見た目は関係ない、本当の実は味だ」ということに気づき、それ以降失敗はなくなります。
本当においしいケーキはどれか、ということに、見た目にとらわれずに判断できるようになるのです。
そういうことです。
物理的な事項、見た目にとらわれるということは、実を取らずに、見た目を取っているということです。
「気分」という実を取らずに、「見た目」という虚を取っている。
なぜそっちを取ってしまうのかというと、まだ経験が足りないか、分析が足りないかです。
その結果、望みを堰き止めるという行動に走ります。
…
望みは勝手に湧いて出ます。
なぜかは知りませんが、勝手に出ます。
そこで大事なのは、それをどうこうすることではなく、それをどうこうしないことです。
堰き止めたり、変にいじくると、決壊を起こしたり、おかしなことになります。
望みは流れるままに流しておけばいいのです。
叶う叶わないに、いちいちフォーカスしなくていいのです。
ただ流れているものを、ただ流しておけばいいのです。
何もしなくていいのです。
物理的なことこそ全てと思っていると、「叶わない望み」に嫌な気分を覚えます。
だからその望みにフタをしようとします。
物理的な事項にフォーカスしてしまう我々は、嫌な気分を味わいたくないので、この望みを抹殺しようとします。
そうして無理に望みの流れを堰き止める結果、おかしくなります。
なぜならそれは、不自然なことだからです。
不自然なことをすることによって、不自然が起こります。
自然にしていれば健康なはずなのに、病気になったり。
悩み、苦しみ、不調和が起こったり。
それはすなわち、不自然の結果です。
何もしなくていいのです。何も。
望みは、叶えなくていいのです。
望みは、堰き止めなくていいのです。
望みが流れているなら、ただ単に流しておけばいいのです。
何もしなくていいのです。
何かする必要など、ないのです。
叶える必要など、ないのです。
…
この仕組みをまとめましょう。
まず、「望み」なるものが湧き起こります、勝手に。
そして我々には、目に見える物理的な事項に着目してしまうという性質があります。
この二つが組み合わさると「叶わない望み」なるものが生まれます。
単なる「望み」が、物理的事項に着目する我々のフィルターを通ることによって、「叶わない望み」に変化するのです。
実際、望みなるものの多くは、物理的には叶わないものです。
物理的に叶うことが成功だと信じている我々にとって、物理的に叶わないことはすなわち、失敗です。
そして失敗を避けるため、その原因となった望みを抹消します。
こういう仕組みで、望みの抹消は起こります。
しかし、望みが湧き起こるということは、自然現象です。
それは川の流れと一緒です。
川の流れを堰き止めるとどうなるでしょう。
決壊です。
望みを堰き止めた結果、人生に決壊が起こります。
不幸、災害、病気、不調和。
あらゆる厄災がやってきます。
しかしそれは、とても必然的な結果です。
自然のルールに則った、必然の結果です。
決壊を起こさないためには、堰き止めなければいいだけの話です。
わざわざやらなくてもいいことをやって、不幸を呼び込んでいる。
それが事実を客観的に眺めた結果、わかることです。
この不幸を避けるために必要なことはなんでしょうか?
それは「何もしない」ということですね。
決壊の原因になる堰き止めをわざわざやるなんて、バカかと思いますが、それはこの仕組みが見えてないからこそなせる技です。
逆にそれだけ我々は、目に見える物理的事項に、注意を引き付けられているということです。
さて、仕組みは理解できました。
あとはこの理解を生かすも殺すも、あなた次第です。
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