「無」ということの奥深さ

最近「何もない」ということについてお話していますが、今回もそんなお話です。

「何もない」については、以下から続くエントリーをどうぞ。

「何でもない」とは何か
人生とはつまり、「何か」ですね。 どこに住み、何を着て、どんな仕事をし、どんな人間関係があり、どんな出来事がありと、「何かであること」の集積がつまり、人生です。 生まれてから死ぬまでの間の、「何か」で埋め尽くされている期間。 それが人生です...

 

 

何もないのはつまならい、と思うかもしれません。

しかし、何もないということは、全てがある、ということです。

 

何もないのに全てあるとは、論理的にはおかしな話に聞こえるかもしれません。

しかし実際はそんなにおかしな話でもなく、むしろ当たり前の話です。

なぜでしょうか?

 

 

何もないとは、「全てOK」ということです。

だから全てあるのです。

簡単ですね。(笑)

 

「全てが起こりうる可能性を秘めている」という言い方もできます。

つまり、「全てを内に秘めている」ということです。

 

「何かである」というならば、それはその「何か」でしかありません。

しかしこの世界に展開している「何か」は、何かであり続けるということはできません。

一瞬たりとも同じではありません。

つまりこの世界において「何か」は存在し得ないのです。

次の瞬間にはもう「何か」ではないので。

 

この世界における「何か」はつまり、「何でもない」のです。(笑)

「何」とは言えないのです、厳密な意味で。

その「何」は、言った瞬間にはもう「何」ではないので。

その「何」は、すでに無い「何」です。

捕まえられないのです。

幻影です。

「世界は幻影」とはよく言いますが、それは本当に、厳密に見ればその通りです。

 

私たちは普段、世界を厳密には捉えず、「何となく」捉えているから、一般的な生活が成立しているのです。

厳密に捉えたら、全ては「無」に帰します。

有の中で有として暮らしていけるのは、ぼんやりと、なんとなく世界を捉えているからこそなせる業です。(笑)

 

「じゃあ何もないなら一体何があるんだ!?」とツッコミたくもなりますが、その通り、「何もない」があります。(笑)

というか、それしかありません。

「何もない」しかありません。

それが厳密に世界を見た場合の、見た通りの事実です。

 

例えるなら何もないとは「0」ということです。

何に0を足しても、変わりはありませんね。

つまり、全てに0は含まれているのです、潜在的に。

逆に言うと、0は全てを内包しています。

「無」は全てを内包している、ということです。

 

 

「ない」ということの奥深さ。

「ない」は全ての「ある」を内包しています。

 

それはつまり、全てを失くすと全てを得るということです。

 

実に興味深い話ではありませんか?

全てを得たかったら、全てを失くすということです。

 

目に見える全てを消し去ってみれば、後に残るのは「無」であり、無は全てに通じている、ということですね。

 

 

人は必ず、何かを持っています。

それは服や車といった、目に見える物理的な証拠がある場合もあれば、プライドや劣等感といった心理的な場合もあります。

 

「自分がもっているものは何と何と何…」

指折り数えることができるかもしれません。

 

しかし実際、人は何も持っていないのです。

服も、車も、心理的な全ても。

 

それらは持っているのではなく、「持っている気」を持っているのです。

何人も所有することはできないし、所有されることもできません。

 

所有というのは「概念」です。

「そうであるという気」です。

 

あなたはそれをもっているということを、どのように証明することができるだろうか?

証明書?契約書?

それらは気分を盛り上げるためのアイテムに過ぎず、実質はただの紙切れです。

 

所有は概念というこの感じ、わかりますでしょうか。

思い込みなのです、「持っている」という思い込み。

それが、この現象を厳密に見た場合の事実です。

実際のところは、「所有している」という概念を持っているだけなのです。

 

 

何も持っていない。

つまり「0」。

それが実質です。

 

全てに0は付随するのです、見えない形で。

0は見えません。

だから「無い」です。

しかし「無い」という形で「ある」。(笑)

 

0こそが、全てに共通する唯一のもの。

0こそが、唯一の「ある」もの。

つまり、唯一の実質が「無」です。

 

世界の実質とは「無」なのです。

 

無だからこそ、所有という概念をそこに放り込むことができるし、その他もろもろを放り込むことができます。

無限のバリエーションを生むことができます。

 

決まった何物もないから、何物も起こりうるのです。

 

 

人は誰しも、無限の可能性を秘めています。

明日突然億万長者になる可能性もありますし、明日突然無一文になる可能性もあります。

 

「可能性」としてなら、どんなことだって起こり得ます。

コロナウィルスだって、あんなことになるとは、誰が予想したでしょうか。

 

どんなことだって起こり得ます、「可能性」としては。

全員がそれを持っています、可能性として。

なぜなら、本質が「無」だから。

 

「何か」であるのは、全て一時的です。

変わらないものなんて、ありません。

そんな中で、唯一変わらないものが「無」です。

 

無だけは変わりません。

無だけは永遠です。

つまり、宇宙は永遠であり、私たちも永遠です。

 

 

無であり0。

すなわち、全てがある。

この「無」という財産。

 

これがまさに「財産」という感覚、わかりますでしょうか?

とんでもない財産を私たち全員はもっているのです。

 

「有」にフォーカスするのではなく、「無」にフォーカスする。

「何か」を追っかけるのではなく、「何でもない」に居る。

 

それですべては解決します。

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