「知る」ことによっては、物事は解決しません。
知ること、考えること、解釈を得ること。
そういうことによっては、物事は解決しません。
そもそも物事は解決しないのです。
解決したと思うのは、未解決という全体の中において、解決したという事象が発生しただけです。
実際は永遠に解決しません。
この未解決を気持ち悪いと捉えるからこそ、解決への欲求が生まれます。
いや、未解決は気持ち悪いですよ、誰にとっても。
普通は未解決を未解決のままにはしておけませんよ。
どんな推理小説だって、最終的に事件は解決します。
そうじゃないと読者が納得しないから。
誰もが持つ、納得したい欲求。
でも、永遠に納得できない現実の世界。
知識や考えや解釈によっては、永遠に納得はできない世界。
もう放擲するしかない。
でも放擲できない。
未解決のわからなさに身を委ねることができない。
最終的には、未解決のわからなさに身を委ねるしかないことは、わかっています。
世界は現にそうなのだから、それに合わせるしかないのは、わかっています。
頭では、わかっています。
でも、身体がついていかない、心がついていかない。
どうしてかな?
わかりませんね、それは。(笑)
世界は「わからない」ですから。
結局我々にできるのは、この「わからなさ」に身体を馴染ませていくことだけです。
わかりたいという欲求を押さえつけるのではなく、わかりたいという欲求に身を委ねるのでもなく、わかりたいは放っておいて、わからなさに身を委ねるのです。
そしてそれに徐々に馴れていく。
それしかありません。
わからないに、常に身を浸しておくのです。思い出すたび、常に。
パンパンに膨らんだボールから、徐々に空気を抜いていくように、妄想や考えをシュウシュウとしぼませていくしかありません。
完全に抜け切ったとき、いや、抜け切ったかどうかすらもうわからない時、そう「なって」いることでしょう。
自分は消え、全体と一体になっていることでしょう。
馴れです。
自転車の練習をするように、仕事の手順を覚えるように。
最終的には、無意識にそう「なって」います。
最終的には、そっちが当たり前になっています。
あなたが本当に求めているなら、きっとそうなります。
求めよ、さらば与えられん。
敲けよ、さらば開かれん。
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