エゴを満たすことと本当の幸せの違い

前回、幸せとは「それで良さ」という話をしましたが、じゃあ人殺しでも強盗でも好き放題やって「それで良い」のか、という疑問が必ず出てきます。

→ 幸せとは何でしょう、そしてどうすれば幸せになれるのでしょう

 

それはあなた、本当にそこにいる時、そうしたいなんていう願望が出てきますか? という話です。

あなたが本当に幸せのポジション、渦に巻き込まれるのではなく、それを眺めるポジションにいるとき、本当にそうしたいと思いますか? という話です。

人殺しや凶悪犯罪など、およそ一般的に人が「悪い」と思えるようなことは、思いっきり渦に巻き込まれているからこそ、出てくる出来事です。

 

 

一般的な感覚から言って「悪いこと」と思えること。

これはエゴの仕業です。

「人生のしくみ」と「本当の自分を生きる方法」

 

自分の都合最優先という発想から、そういう「悪いこと」は生まれます。

自分が第一、他は二の次。

自分が良ければ、他は犠牲になろうが何だろうが関係ない。

それがエゴの行動原理です。

エゴの仕事は「個を安全快適に存続させること」ですから。

 

一方、幸せのポジションにいる時は、そもそも「自分」なるものがありません。

存続させるべき「個」がありません。

つまり、エゴがありません。

 

あなたが幸せのポジションにいるとき、世界は勝手に起こっています。

あなたも世界も一緒なので、自分もひっくるめた世界が、勝手に起こっています。

 

 

世界を傷つけるようなことは、勝手には起こりません。

それは必ず、意図的に起こっています。

何の意図かというと、それはエゴです。

 

エゴは「自分」を守り、安心快適に存続させるよう働きます。

「自分」を最優先に考える機能です。

エゴが仕事をすればするほど、「自分以外」をメチャメチャにします。

世界を傷つけ、他人を傷つけます。

 

「全てはOK」や「あるがままで良い」に対して、「じゃあどんな悪いことをやってもいいのか」という疑問が出る時、あなたは渦に巻き込まれています。

その質問は、エゴがしているのです。

エゴがエゴ的反応しているのです。

それが「見え」ますか?

 

「どんな悪いことも認められるんなら、それはいいよなあ」と思ったり、「いやいや、それはどう考えてもオカシイだろう」と思ったり、まあいろいろな反応をみせますが、結局それも上から眺めてごらんなさい、という話です。

「人生のしくみ」と「本当の自分を生きる方法」

 

 

ああでもない、こうでもないという思考は、エゴが行っています。

「あれがああなってこれがこうなるのは、それがそうなるから筋が通らない」みたいな思考は、エゴの機能です。

「悪いことでもしたいときはしたい、でも悪いことをすると世間が許さないから、それは結局自分のためにならない、だからやめておこう」みたいな思考は、エゴが仕事をしているのです。

ああしようか、それともこうしようか、自分のためには何が一番いいかな? と。

 

幸せのポジションにいるとき、考えてはいません。

考えは勝手に起こっています。

「考えている」わけではありません。

 

誰の都合も考えていません。

良いも悪いも考えていません。

全ては勝手に、ただ起こっています。

 

「それで良さ」「全てOK」に対して、「じゃあ何やってもいいのか!?」みたいな、「いい」のか?「悪い」のか?、という善悪を問う質問が出るということは、エゴが仕事をしているということです。

良い悪いを決めたがるのは、エゴです。

 

幸せのポジションにいるならば、何も決めません。

ただ「見ている」だけです。

何もしません。

そこでは何かを「する」ということはなく、何かは勝手に「起こり」ます。

 

何かを決めたがる時は、自分が今どこにいるのかを確認してみてください。

きっと渦に巻き込まれています。

決めることによって、自分を安心させたいのです。

エゴが「個を安心快適に存続させる」という仕事をしているのです。

 

そんな反応すら眺める時が、幸せのポジションです。

 

幸せになりたいなら、自分が今どこにいるのかを確認してください。

巻き込まれるているのか、それともそれを見ているのか。

 

冒頭の質問は、巻き込まれているからこそ出る質問です。

巻き込まれているならそのことに気付き、そこから出ましょう。

 

あなたにとって大事なのは、質問をすることでも解答を得ることでもなく、そこから脱け出し、それを上から眺めることです。

「何もしない場所」に還ることです。

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