私たちは普段、結果を見ています。
結果が気になります。
いくら稼いだか、どれだけ売れたか、どんな肩書を得たか、何点取ったか。
しかし、「逆の原理(笑)」に従うと、それは見る方向が逆です。
結果を見るのではなく、原因をこそ見るべきです。
普通は、結果を見ることによって、満足したい、安心したい、いい気分を得たいと、そうなります。
だから、原因は見ずに、とにかく結果。
結果を得るためにはどうすればいいかを考え、そして結果を得るために動きます。
しかし、所定の結果を得たからといって、満足や安心やいい気分が得られるかといえば、そうではありません。
というか満足や安心やいい気分は、「結果」によって得るものではありません。
それは的外れです。
満足や安心やいい気分は、今、その場で、得るものです。
何かに頼る必要はないし、何かがなければ得られないものでもありません。
そして何かによって得たものは、真正ではありません。
それは一時的、刹那的なものです。
もちろん「見え方」としては、結果がいい気分をもたらしてくれるように見えます。
志望していた学校に入れれば、確かにうれしい。
ボーナスがドカンと増えれば、確かにうれしい。
でもそれは一時的、刹那的。
真正なものではありません。
真正な満足とは何か。
それは内から湧き出てくるものです。
内をこそ見なくてはいけません。
自分との対話、自分に深く浸透していくこと、自分感の増加。
ひたすら自分に居ることに集中していると、真正はそこから湧き出ます。
余計な情報はシャットアウトしてしまっていいと思います。
自分感を深めていったほうが、いいと思います。
余計なことは考えずに、ひたすら自分に集中すると、気分がよくなってきます、パワーが湧き起こってきます。
それは無から生まれた、真正なパワーです。
「何か」によって、もたらされたものではありません。
でもそれが湧き起こったからといって、早速何か行動を起こそうと、外へ目を転じる必要はありません。
ひたすら内です。
ちょっといい気分になると「ヨッシャー!」と張り切って、ほとんど気づかないうちに外に目を転じてしまいますが、初めの段階こそ重要です。
本当に気づかない感じで、元に戻っています。
いつの間にやら、元の木阿弥です。
本当に気づかないうちに、不安で回りをキョロキョロしています。
あんなにパワーが漲っていたのに、いつの間にか、元のわたわたする自分に戻っています。
ひたすら内、何があっても内。
これを徹底したほうがいいです。
内にしか真正がないことはもうわかっているわけですから、内に向かうしかないわけです。
これは本当に、引力を断ち切るような膨大なエネルギーが必要です。
ロケットのように内に向かうしかありません、ドドド!と。
そして重力を断ち切るポイントまで来れば、フワッと楽になるでしょう。
無重力空間に出れば、楽になります。
つまり、転換点を迎えるわけです。
ある時点で、そっちが当たり前だった状況が、こっちが当たり前の状況に転換するのです。
「当たり前」の転換です。
…
自分にとって、何が当たり前か。
それが自分を規定します。
今、うまくいってない状況が当たり前なら、それをうまくいくのが当たり前に転換するのです。
自分にとっての当たり前こそが、自分の人生を決めます。
うまくいく人はなぜうまくいくのか。
それは、うまくいく原因を持っているからです。
その人にうまくいく原因があるから、その人はうまくいきます。
「うまくいく」とはつまり、一個ずつ手で果実をもぎ取るのではなく、果実がなる木を植えてしまうのです。
そうすると勝手に実がなります。
探して、見つけて、苦労して一個もぎ取って、また次を探して、とするより、実がどっさりなる木を育てたほうが、より根本的です。
内を見続けるということは、木を育て続けるということです。
木がしかるべき状態に育てば、「勝手に」実はなります。
実がなる木を放置し、外に一個ずつ実をもぎ取りに行くのが、今までのやり方です。
それは、実際に実を目視で確認できるから、わかりやすいです。
あそこにあれがある、こっちにこれがある、と。
容易に注目を引きます。
そしてついつい、それを取りに行ってしまいます。
まだ実がなっていない小さな木をせっせと世話をするよりも、ずっとずっとわかりやすいから。
しかし、どっちが根本的かといったら、それは木を育てるほうです。
「本当に実がなるのかなぁ」とか、「無意味だったらどうしよう」と、不安になるかもしれません。
外の目に見えるおいしそうな果実を、ついつい取りに行ってしまうかもしれません。
割と困難な道です。
だから、これだけ多くの人が、不成功に終わっています。
やること自体はとても簡単です。
何の物理的な労力もありません。
ただ内に向かうだけです。
しかし、ただそれだけのことが、とても難しいのです。
簡単すぎて。
暖簾に腕押しのように手ごたえがなさ過ぎて、そんな空気みたいなことをやり続けるのは、非常に困難です。
まだランニングとかヨガのほうが続きます。「やった感」があるので。
物理的な手ごたえがあったほうが、逆にやりやすいのです。
簡単すぎることは、逆に続けるのが困難です。不思議なパラドックスですが。
簡単に忘れるし、簡単にスルーします。まるで空気のような存在なので。
存在が軽すぎて、そこに着目し続けることが、非常に困難です。
今の世の中、もっと目を引くことがあまりにも溢れていますし。
最も簡単であると同時に、最も難しい。
まるでトンチのような、何ともオツな方法を、神様は用意したもんです。(笑)
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