もともと幸せ

何かやらなくちゃと思ってしまう。

うまくやり遂げないと、ダメになる。不幸になる。

不幸にはなりたくない。ダメにはなりたくない。

何かをやらなくちゃいけない、何かを。

 

目に見えるものを信じ、思考すると、このような結論に至る。

目に見えるもの、目に入る情報。

それらが我々を急かす。

うまくやれと。

うまくやらないとダメになるぞと。

 

目に見えるものは、我々を不安に陥れる。

我々は簡単に不安になる。

そして不安に接しすぎて、不安が当たり前になる。

不安を抱えないで能天気に生きている人は、割と少ない。

 

不安は全て、思考の産物。

思考しなければ、不安もない。

不安は思考による、必然の結末。

思考によって幸せに至ろうという画策は、簡単に頓挫する。

思考と幸せは全くクロスしない、別次元の出来事。

 

幸せとはもともとあるものであり、それを発見するしかない。

そのためには、思考という曇りを排除しなくてはならない。

思考によって幸せを得るのではなく、思考を排除することによって幸せを得る。

頑張るのではなく、頑張らないことによって、幸せを得る。

 

頑張らないことは、頑張ることより、難しい。

頑張るのは簡単。

普通にしてたら、勝手に頑張るから。

 

しかし、頑張らないのは難しい。

普通にしてたら頑張ってしまうから、普通じゃいけない。

頑張らないためには、意識してそうする必要がある。

意識的に頑張らない。

意識的に能天気。

能天気でいられたら、幸せ。

 

幸せって、意外と人が思っているようなものとは違う。

豪邸に大金。安穏な生活。老後の不安もない。

それらは幸せとは違う。

欲しいモノが全て手に入ったとしても、それは幸せではない。

 

ちょっと考えてみよう。

あれが欲しいこれが欲しいと言っている人と、何もいらないと言っている人。

どっちが幸せっぽく見えるか。

 

間違いなく、何もいらない人。

何もいらないなんて、それはもう満たされているから。

あれが欲しいこれが欲しいは、満たされてないから。

 

何もいらないなんて言えたら、最高じゃない?

それこそ最高の幸せじゃない?

 

どうすればそう言える?

欲しいものを全部手に入れたらそう言える?

 

いいえ、欲しいものを全部手に入れても、「欲しい」が消えるわけではない。

経験があるはず。いくら手に入れても、まだまだ「欲しい」が出てくるという。

手に入れることは解決にはならない。

 

解決はただ一つ。

すでに満たされていると知ること。

 

どうやって知る?

あれも欲しいこれも欲しいがいくらでも出てくる状況で、どうやってすでに満たされているなんて思える?

 

それはですね、次元が違うのです。

「あれが欲しいこれが欲しい」の次元と、「すでに満たされている」の次元は、違うのです。

それは、物理次元と、物理以前の次元。

目に見える次元と、目に見えない次元。

 

つまり、目線を転じればよい。

見ているものを変えればよい。

物理次元から、物理以前の次元へ。

目に見える次元から、目に見えない次元へ。

 

「あれが欲しいこれが欲しい」は、何の問題もありません。

「あれが欲しいこれが欲しい」であっても、すでに満たされているは可能です。

何が欲しかろうが、何が欲しくなかろうが、そんなことは関係なしに、すでに満たされているから。

それは全員に可能です。

 

なぜ、何もいらないと言えるのか。

それは我々がもともと、ナッシングだから。

我々はもともと「無」であり、「何」でもないから。

何もいらないとは、本来の様をただそのまま言っただけの話。

我々は「何」でもないし、何でもないし、何もいらない。

それが本来の姿。

 

「何」でもないから、何かを得ることができる。

「何」でもないから、いろんなものを得ることができる。

「無」であるとき、何もいらないは自然に出る言葉。そのまんまの言葉。

そして「何」でもないとき、「何か」は全てが恵み。

 

いつ死んでもいい人にとって、生きていることはそれだけで恵みであり、感謝。

何も持たない人にとって、「何か」はそれだけで恵みであり、感謝。

「無」でいるとき、全ては恵みであり、感謝。

 

 

幸せとはそういうもの。

何かを得ようと焦ることとは、次元が違う話。

もともとそうであるものに目線を転じれば、そこはすでに幸せ。

我々はすでに、最初から幸せ。

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