人は何者かを目指します。
大工さんになりたい、パティシエになりたい、社長になりたい、女優になりたい。
何者かになろうとして、努力奮闘します。
しかし、何者かになりたいの「何者」とは、服のようなものです。
それは表面を飾る何かです。
表面を取っ替え引っ替えしても、中身は変わりません。
「あなた自身」は、脱ぐことも着替えることもできません。
つまり、何者かになったとしても、何も変わらないということです。
それは「服を着替えた」程度の違いです。
どんなに服を取っ替え引っ替えしても、あなた自身は変わりません。
服にこだわることも、まあ大事でしょう。
しかし、生死に関わる重大案件かといえば、そうでもありません。
それは「趣味」程度のものです。
何者であるか、社会的地位がどうか。
それは「趣味」です。
もっと大事なことは、「本体」です。
つまり、自分自身です。
どんな職業に就こうが、どんな社会的地位であろうが変わらない、自分自身です。
自分自身は、脱ぐことも着替えることもできません。
職業みたいに「イヤだから変えよう」、というわけにはいきません。
この、どうにもならない自分。
そうであって、そうでしかない自分。
そうであってそうでしかないとはつまり、「絶対」です。
絶対はそれしかないので、すなわち「完璧」です。
ここのところのよく書いている「完璧」なるものは、自分自身にもまた適用されるのです。
コロコロ変わることができる、職業やら社会的地位は、相対です。
それには完璧なるものは、存在しません。
しかし、自分自身は完璧です。
この「自分自身の完璧さ」を、知りましょう。
自分自身を不完全であると認識する。
能力が足りない、機能が欠落している、誰かより劣っている。
それはつまり、「相対」としての自分においての話です。
相対をみたらキリがありません。
そこに完璧は存在しません。
服はいろいろ取っ替え引っ替えできます。
「変わることができる」
それは相対の面白味であり、そこにおいて一喜一憂するのもまた楽しいことです。
もちろん、みすぼらしい自分の服を嘆くことも可能です。
しかし、自分自身の完璧性においては、嘆くことは不可能です。
それは相対ではありません。
他人と比較してどうこうではないのです。
「絶対」です。
自らの絶対性を見てください。
そうでしかない様。
そうでしかないにおいて、いかに完璧かを。
それは、震えるほどの調和です。
完璧なハーモニーです。
宇宙が奏でる、完璧な調和を聴いてください。
恐怖はあり得ないのです。
怖気付くことはあり得ないのです。
宇宙に不完璧は、あり得ないのです。
そもそもそんな言葉自体ありません。
絶対において不調和は、あり得ないのです。
それは完璧なハーモニーです。
完全不完全すべてを飲み込んだ、完璧なハーモニーです。
不協和音すら、それ無しでは完璧であり得ない、ハーモニーの一部です。
その美しい調和を聴いてください。
全ての問題は、雲散霧消します。
そんなものは初めからありませんでした。
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