人生の転換

何かをすることによって何かになる。

それは結局、堂々巡りです。

 

身体を鍛えて健康になる、資格を取って収入を増やす。

それらのやり方は、今までと同じです。

 

根本的に変わるために必要なのは、ただ事実を見ることです。

事実をありのままに見れば、それはただ見た通りです。

 

コップを見てコップとわかるように、車を見て車とわかるように、事実をありのままに見れば、事実がどうなっているのかがわかります。

 

それはつまり、今までいかに妄想の中で生きていたかがわかる、ということです。

そして妄想から抜け出すことが、根本的に変わるということです。

 

 

事実はあまりにもあっけないです、あまりにも単純です。

それはただそれ、というだけですから。

事実を見逃してしまうのは、それがあまりにもあっけなくて単純だからです。

 

だから人は、ただのそれに、いろんな意味や解釈、脚色、尾ひれ羽ひれをつけます。

それらの付着物がつまり、妄想です。

妄想を取り払った事実をそのままを見ると、そこに本来性を見ることができます。

 

本来のそれ、そのもの。

 

「え?これ!?」

 

はい、それです。

 

 

それが何の意味もないように見えるのは、実際何の意味づけもしていないからです。(笑)

本来全ては無意味です。

 

「意味」は本来のものではなく、後から付け足すものです。

本来それは、ただのそれです。

 

人は本来無意味なそれに意味づけし、その意味の中で生きています。

それはすなわち、事実の中に生きているのではなく、妄想の中に生きているということです。

 

事実は誰も否定できません。

事実はあくまで事実です。

 

しかし「意味」はいかようにも変えられますし、いろんな解釈もできます。

それは否定したり肯定したり、変えたり変わったりできる、不安定で頼りないものです。

 

 

事実を認識すれば、何が変わるでしょう?

 

それまでのそれは、それまで通りで、何も変わりません。

しかし認識が変わります。

 

ただのそれに対して、苦しんだり、期待したり、失望したりが、いかに見当違いで素っ頓狂なことかが、ハッキリわかります。

それは電柱に向かってイチャモンをつけるような、石ころに向かって「何で君はパンケーキじゃないんだ」と嘆くような、何とも滑稽でアホらしいことだとわかります。

「普通」は普通じゃない! ?

 

それはあくまでただのそれでしかありません。

期待や失望や苦しみや喜びすら、ただのそれです。

全くすべては、ただのそれです。

 

肩の力が抜けるというか拍子抜けというか。

こだわりがなくなるというか、どうでもよくなるというか。

 

あらゆる重みも意味も消えて、「何でもないこと」の軽さが浮上します。

 

 

そして、その認識の転換が人生の転換です。

しかし、もはや「人生の転換」にもこだわりはありません。(笑)

 

楽しみも苦しみもやってくるままに享受し、それでOKです。

何事もそうなったらそうなったでOKです。

 

否定さえもOKです。

何でもOKです。

 

何でもOK。

それこそが幸せではないでしょうか。

 

絶対的なOK。

それこそが絶対的な幸せです。

 

 

お金がたくさん手に入った、美味しいものをたくさん食べた、素敵な恋人ができた。

そういう相対的な幸せは、「そうでない状況」との対比の上に成り立っています。

そうであったりなかったり、つまり相対的です。

 

それに対して絶対的なOKは、対比するものがありません。

「全て」がOKですから。

 

幸せとは肯定できること、それでいいと認められることであるなら、絶対的なOKは絶対的な幸せです。

 

ちょっと想像してみてください、全てが肯定できることを。

何であっても、何が起きてもOKです。

 

普通は素晴らしい状況、自分にとって好ましい状況だけがOKですが、全てがOKということは、全てが素晴らしく、全てが好ましいということです。

 

天国があるとしたら、それではありませんか?

 

 

事実を見れば、この世は天国です。

この世界は天国であることが、事実なのです。

 

それは何かをしたり頑張ったりして「そうする」ものではなく、ただ見ればわかることです。

ただ事実をありのままに見ればわかることです。

 

もともとがそうなのです。

もともと世界は天国なのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました