シンプルにいきましょう、シンプルに。
物事は結局、以下の二つです。
- 良い
- ダメ
良いと思っているか、OKと思っているか。
ダメと思っているか、良くないと思っているか。
このどっちかでしょう?
すごーくダメと思っているか、まあまあいいと思っているか、といったグレーゾーンを含め、物事は結局、「良い」か「ダメ」かのどっちかです。
で、これについて「このどっちかのみ!」と思っているのが、普通の考え方で、「ダメでもOK」(つまり、良いだろうがダメだろうが、どっちでもいい)というのが、普通より一段上の考え方です。
お悩みを抱えているみなさんはつまり、普通の考え方をしているということです。
「ダメ」を文字通りそのまんま「ダメ」と受け止めている、真面目なみなさんですね。
悩み、苦しみの根本は「ダメと思うこと」です。
ダメを文字通りダメと捉えているということです。
しかし、その普通の考え方の一段上には、「ダメすら良い」という考え方があります。
そもそもですよ?
そもそも「ダメ」が存在し得る理由は、それが「あっていい」と許されているからでしょう?
存在を許されていなければ、そもそも存在しないはずです。
「ダメ」なるものは、ちゃんと存在しています。
現にあなたはそれのおかげで悩んだり苦しんだりしていますね。
そんなダメがある理由は、あっていいから、あるのです。
あって良くなければ、そもそもありません。
世の中の全ては、あっていいから、あるのです。
あなたがどんなにダメ!と言ったって、現にそれはあるでしょう?
不登校だか政治の腐敗だか知りませんが、現にそれはあるでしょう?
あなたのちっぽけなダメなんかまるで聞いちゃいねえ。
あなたのあって欲しくないそれは、現に堂々とそこにあるでしょう?
なんであるの?
あなたがそこまで強く「ダメ!ゼッタイ」って言ってるにも関わらず、なんでそれは堂々とそこにあるの?
世の中の大多数が「ダメ!」って言ってるのに、なんでそれはそこにあるの?
それは宇宙が許可しているからですね。
宇宙の許可は、私たちのダメなんて関係ないのです。
私たちのダメすら、宇宙の許可によって存在しています。
私たちが「ダメ!ゼッタイ」なんて言えるのも、宇宙が許可しているからです。
つまり、宇宙の許可は、私たちのダメすら包含しているのです。
世の中の存在全ては、もはや「ある」という時点で、存在を許されているのです。
つまり、宇宙は「OK」で出来ているということです。
ダメすら許可されている。
その立場に、あなたが立つのです。
ダメも認めるのです。
なぜならそれは、宇宙から認められているから。
宇宙は「全てを認める」という立場です。
その同じ立場にあなたが立つとき、それはすなわち、宇宙との同調です。
宇宙と同調するとき、あなたは宇宙です。
そのときあなたは、宇宙と同じです。
その感覚を味わいたければ、すべてを許可すればいいのです。心の中で。
こういうと、じゃあ子供は甘やかし放題、犯罪は認め放題でいいのか、とか言われそうですが、認めるのは子供でも犯罪でもなく、自分です。
宇宙と同調したいのは自分でしょう?
悩みを解決したいのは自分でしょう?
ですから許可を出すのは「自分に」です。もちろん。
「あんたそれ簡単に言うけど、言うは易し行うは難しよ」と言うかもしれませんが、そんなことは知りません。
難しいかどうかは知りません。
ただ、そうであるという単純な事実を話しているだけです。
この事実をどう利用するかは、あなた次第です。
…
そもそも苦しみなんてないのです。
物理的な「痛い」とかはありますよ。
指切ったら痛いとか、暴言吐かれたらムカつくとか、そういうのは普通にありますよ。
でも、悩みとか苦しみって、一体何のことを言っているのかって思いませんか? 普通に考えたら。
例えば「借金の返済で毎月苦しい」とか。
そこにあるのはただ単に借金の返済であり、苦しみではありません。
借金があれば、ただ返せばいいのです。それだけです。
「苦しみ」は勝手に取って付けたオマケであり、でっちあげです。
「彼に振られて死にたい」
そこにあるのはただ単に彼が去ったという事実であり、「死にたい」は勝手に取って付けた付属品です。
「いやいや、彼に去られたら死にたいに決まってるじゃないの!」
その「決まっている」って事実ですか?
何が事実であるかを、よく見てみましょう。
悩みも苦しみも、勝手に取って付けています。
事実を見れば、必ずそうなっています。
そうでないというなら、ぜひご一報ください。
それこそ世界的大発見です。
「苦しみ」が世界で初めて発見されました!皆さんご覧ください、これが「苦しみ」です!なんて。
ビッグニュースになるでしょう。
残念ながら、そこにあるのは興ざめなほどの「事実」だけであり、その事実に対して、あれやこれやの付属品を付けているだけです。
それが事実です。
つまり、事実を見ると、悩みも苦しみも「無い」のです。
事実を見ればいつだって、ただ単にそれがそのようにあるだけであり、それ以上でも以下でもありません。
ただ「それ」ってだけです。
誠に興ざめな次第です。
そう、まさに、「興ざめ」です。
事実を見たら、まるっきり興ざめです。
ぽっか~んとするのみです。
そのぽっか~んって、「無」ですね。
何もない。
空白だけが、流れる。
なんにもありませんでした。
悩みも苦しみも、夢も希望も。
なんにもありませんでした。
良いもダメもなかったのです。
いえ、「良い」はただ単に「良い」であり、「ダメ」はただ単に「ダメ」でした。
それに対して、どんなどうこうもまとわりついていませんでした。
それらはただ単にそれらでした。
という話。
事実を見れば、いつだってそう。
今現にそうだし、今までだってずっとそうだった。
なんにも難しい話ではありません。
まるっきりそのまんまの話です。
シンプルにいきましょう、シンプルに。
シンプルにいけば、問題なんてありようがありません。
でっち上げなければ、問題なんて存在しないのです。
「興ざめ」です。人生は。
ただ流れているだけなのです。
「そんなのなんにも楽しくない!」とおっしゃいますか?
いやいや、楽しくないから、楽しめるのです。
「何でもない」からこそ、楽しんだり、喜んだりできるのです。
人生が「何でもない」ではなく「苦しみ」だったらどうします?
あるいは人生が「何でもない」ではなく、「楽しみ」だったらどうします?
それってすなわち、人生が赤一色とか青一色ってことですよ?
人生が総天然色という豊かさでいられるのは、そのベースが無色透明という「何でもない」であるからですよ。
無色透明だから、そこにいろんな色を乗っけることができるのですよ。
喜びましょうよ、人生が「無」であることを。
良いもダメもあり得るのは、そのベースが「無」だから。
宇宙が無であってくれたとは、なんという愛でしょうか。なんというギフトでしょうか。
無とは、宇宙の愛そのもの。
無とは、無条件の愛そのもの。
無にあるとき、我々は無条件の愛そのものなのです。
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