すでに満たされている。
これはそう信じる、信じないの話ではなく、事実です。
すでに全ては、そこにあります。
無いという感覚さえ、そこにあります。
全てはすでに、そこにあるのです。
足りないものは、何ひとつないのです。
だから、我々にはもう、やるべきことはありません。
足りないものを埋めるためにやるべきことは、何もありません。
つまり「何もしなくていい」のです。
「何もしなくていい」は、一種の解放です。
我々は常に、「何かしなくちゃいけない」という強迫観念にも似た思いを抱えていました。
でも、冷静に事実を見たら、何もする必要はありませんでした。
冷静に、ありのままをみたら、そうでした。
だって全ては「ある」から。
「しなくちゃいけない」は、足りないものを埋めるために行う行為です。
全てがすでにあるなら、やる「べき」ことはありません。
やってもやらなくても、どっちでもいいわけですから。
これはすなわち、解放です。
肩の荷が下りるわけです。
何もしなくていいとき、あなたは何をしますか。
「何もしない」
それもひとつの選択でしょう。
何もしない。
これは素晴らしい選択です。
何もしない。
これこそ本当の行為です。
何もしないとき、実はすべては行われています。
何もしないということは、中心にいるということです。
何もしないということは、すべてを行っているということです。
すべてに通じているということです。
ただ安心して満たされているだけ。
それだけで、全ては行われています。着々と。
何もしないということが、実はもっとも効果的な行為です。
そしてそれができるのは、すでに満たされていると知るとき。
全てが完全円満でパーフェクトだと知るときです。
「足りない」という思いがあるとき、人は何かをせずにはおれません。
その状態でやせ我慢をして何もしないでいても、それは「やせ我慢をしている」わけです。
真に「何もしない」ができるのは、完全円満で満たされて、全てがパーフェクトだと心の底から安心しているときです。
ですから、全てがすでにあり、完全円満で満たされていると知ったほうがいいのです。
そして、それを知ってしまえば、それで終わりです。
あとは自動的に事は運びます。
それを知ってしまえば、もうやることはないのですから。
これは信じる、信じないの話ではなく、事実です。
事実をありのままに見れば、それはそうなのです。
「そういうふうには見えない」
それは、事実ありのままを見ていないのです。
それは何か、概念を見ているはずです。
「こうであるはず」という予断を見ているはずです。
何にもくらまされない、誰にもじゃまされない、本当の意味でストレートに見たならば、それは間違いなくそうなのです。
「なぜそう言えるのか」
それは見たまんまだからです。
誰でも見ればわかりますし、見ないことにはわかりません。
言葉の説明では、何もわかりません。
実際に見ないことには、真にはわかりません。
ですから、実際に見てください。
見ることにこそ注力してください。
不安定な状態で、力技でなんとかするのではなく、ただ単に見てください、事実を。
力技では何ともなりません。
人間の個人的な力技では、宇宙を覆すことはできません、そんなことは不可能です。
事実を見れば、それで終わりです。
事実を見てください。
我々は初めから救われていたのです。
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