さて前回、否定を肯定に転換する、というお話をしましたが、これはすべて自分についての話です。
「肯定をする」というのは、全て自分についてであり、他人や外の状況ではありません。
なぜなら世界はすべて、自分の意識の上に展開しているからです。
「外」はありません、実は。
外と思っているものは、実は内です。
自分の内である意識を、「外」というものを通して見ているのです。
あなたの意識が消えた時、外の世界も消えますね。
「いや、残っている」という場合、誰にとってですか?
あなたにとっての世界はどこですか?
あなたにとっての世界は、あなたの意識の消滅とともに、消えますね。
そして、あなたの意識の出現と共に、出現します。
つまり、あなたの認識状態が、あなたにとっての世界です。
自分の世界を作るとはすなわち、自分の認識状態を作る、ということです。
否定を肯定へと転換すると、真の世界が現出します。
なぜなら世界は、肯定でできているからです。
否定から肯定への転換は、真実との同調ということです。
…
そもそも否定はなぜ発生したのかというと、外の世界の影響を受けたからですね。
生まれたばかりの赤ちゃんに、否定はありません。
赤ちゃんが「それはいけない」なんて言いません。
あるがままです。
成長の過程で、親の教育や学校の教育、自らの体験や周りからの情報というもので、いろんな否定を蓄積してきました。
なぜそんな、敢えての否定が必要なのか。
それはエゴの仕業ですね。
否定とは、人が自らの身を守る過程で、発生してきたものです。
あれをしないように、これをしないように。
あれはダメ、これはダメ。
それはすなわち、「それをすると自らの身を危うくする」からです。
だからそれをしないように、「否定」なるものを作りだした。
人間はそういう意味では賢いのです。
エゴの能力は大したものです。
しかし、自然に否定はありません。
前回も言いましたが、世界はそもそも肯定です。
否定があるのは、人間だけです。
エゴがある、人間だけです。
否定がないという状態が、すなわち肯定です。
「そうである」という時点で、そもそも肯定です。
否定は「敢えてしないと」発生しないものです。
否定は「わざわざ」やっているのです。
何もしなければ、全て肯定です。
否定とはすなわち、「不自然」なのです。
その不自然から自然に戻ること。
それがすなわち「否定→肯定」の転換の意味です。
…
「否定→肯定」の転換。
これは全て自分について行われるものです。
他人とか外の状況についてではありません。
自分の意識の投影が現実の世界なので、自分を変えることが、すなわち世界を変えることです。
例えば、「あの人のこと今まで否定してたけど、今度からは認めよう」とか、そういうのは必要ありません。
外の何かを認めるのではなく、自分自身を認めるのです。
「あの人のことを許せない自分を許す」のです。
「あの人もあの人なりに頑張ってるのだから、ちゃんと認めてあげないと」ではありません。
つまり、人のことは許せなくてもいいのです。
人のことを許せない自分を許し、人のことを許せる自分も許す。
つまり、何であろうとどうであろうと許す、ということです。
「今まで人のこと許せないの、いけないことだと思ってた。でも許せなくていいんだ!」
それが真の解放であり、肯定の威力です。
パッとその人の顔が明るくなる瞬間です。
生命が流れ出す瞬間です。
そして、許せないことを許したら、逆に許せるようになります。
なぜなら、もう人のことはどうでもいいから。
「許す・許さない」という許し方ではなく、もうどうでもいいという認識状態によって、その人のことはもうそのままでいい、となる許し方です。
世界は放っておいたら肯定。
それが真実です。
ありのままの世界は肯定であるという真実に、そのとき同調したのです。
これが逆に「あの人のこと今まで否定してたけど、今度からは許そう」だと、全然許してないのです、自分を。
相変わらず、許せない自分を許していません。
許せない自分を否定しています。
許せない自分を否定しているからこそ、「許してあげないといけない」と、「~しないといけない」という発想になります。
「~しないといけない」「~すべき」
これは全部否定の裏返しです。
前回も見たように、何かしなくちゃいけないと思っているから「何もしない自分はダメ」となります。
本当は許せないのに許してしまうのは、「許せない自分はダメ」と思っているからです。
…
このように理屈で納得することも、もちろんできます。
しかし、感覚を見ればもっと簡単にわかります。
それが合ってるか間違っているかは、感覚でわかります。
感覚でもう、間違えようがありません。
許したくない他人を無理に許す時、感覚はどうですか。
閉塞感です。
どんどん詰まっていく方向です。
無理やり感、納得できない感、不承不承。
そんな感じです。
逆に、許さなくてていいことを認める時、その時の感覚はどうですか。
解放感です。
フワッと流れる方向です。
パッと視界が開ける感じ、心が軽くなる感じ、肩の荷が下りる感じ。
感覚でもう、一目瞭然です。
生命が流れる方向、躍動する方向。
それが正しい方向です。我々が行きたい方向です。
それはもう、感覚が教えてくれます。
間違えようがありません。
ハッキリと違いますから。
我々には「感覚」というナビゲーションが、そもそも備わっています。
標準装備です。
宇宙がそもそも、そういう作りになっています。
…
許すのは自分です。
人は許さなくていいのです。
今まで聞いてきた話と違いますか?
人のことを許すべきと習ってきましたか?
自分のことを優先するのではなく、人のことを優先すべきと習いましたか?
ハイそれ。
「~すべき」
これはすなわち、「それができない人間はダメ」といっていることと同じです。
できない人間を否定しているのです。
「~すべき」が頭の中にあるならば、それこそが覆されるべきです。(笑)
肯定とは、あらゆる「~すべき」を外していく過程とも言えます。
真実は習ってきたこととは全然違います。
人は自然に還る時、真実が見えます。
あるいは真実を見る時、自然に還ります。
否定から肯定への転換は、自然に還る過程とも言えます。
詰め込まれた否定を外し、本来肯定である世界と調和する。
それが人間本来の生き方です。
でもそんな生き方は、今のエゴ的社会では生きていけないと思いますね。
他人ではなく自分を優先していたら、今この社会では生きていけないと感じていますね。
捨てましょう。
あなたが今生きている世界を、捨てましょう。
それが新しい世界への移行ということです。
古い家に住みながら、新しい家に住むことは、できません。
あなたが新しい家に住みたいと思ったら、古い家とはオサラバしなくてはいけないのです。
もちろんその時「やっぱり古い家がいい」となったら、無理に移行する必要はありません。
心ゆくまで、古い家を堪能すればいいのです。
しかし、古い家に閉塞感を感じ、新しい世界を希望するならば、古い世界は捨てなくてはいけません。
右と左は同時には向けません。
向きたい方向を向いたら、その他の方向は一切視界に入らなくなります。
どれか一方向を選択です。
…
今まで言われてきたことは、真逆であることが多い。
このブログでも、よく「逆、逆」と言っています。
あなたが固く信じて疑わないそれは、実は真逆である場合が多いのです。
正しい答えは感覚が教えてくれます。
苦しく、重々しく、息詰まる感覚があるなら、再考の余地ありです。
そこには何かしらの否定が潜んでいます。
そして発見してください。
パッと視界が開ける感覚、気持ちのいい感覚、スムーズな感覚を。
今までダメと思ってきたものを「あ、いいんだ」と発見する時、感覚の転換が起こります。
そして、世界との同調、流れの回復が起こります。
転換とは「否定→肯定」です。
そしてその転換は、自分において起こります。
自分=世界だからです。
世界が変わる様を見届けてください。
それは実に素晴らしい体験です。
外の世界に手を下すのではなく、意識を変えることによって。
外の世界は何一つ変わることなくそのままに、あなたの世界は変わっています。
世界はあなたの「内」に展開しています。
あなたの内の世界が素晴らしくなれば、外の世界は素晴らしく「見え」ます。
何一つ変わらずそのままに、素晴らしく見えるのです。
その時すでに、外の世界は素晴らしい世界です。
外の世界が物理的に変わることは期待しなくていいのです。
証拠は何もいらない。
すでにあなたの中に「確信」があるから。
世界は美しいという確信が、すでにそこにあるから。
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