本当に難しいことなど何もないのです。
ただ単に今ここにいれば、何の問題もありません。
問題というものは全て、今ここではないどこかに行っているというだけの話です。
「今ここ」
なんだよそれ、という話ですね。
「我々は常に今ここにいるじゃないか。今ここじゃないどこかに居れるなんて不可能じゃないか。なのにどうして次から次へと問題が起きるのか」と。
「そもそもなんで今ここにいれば問題が起きないんだ?」と。
そうです。問題なんて起きたことはないし、これからも起きることはありません。
問題なるものは全て、ある事象に対して「問題」というネーミングを付けているだけの話です。
「問題」とは全て、ネーミングの話だったのです。
問題は起きたことはないし、これからも起こりません。
「なるほどわかった。問題とはネーミングの問題と言われればそういう捉え方もできるだろう。屁理屈かもしれないけど、言っていることは理解できる。でも確かに苦しいこの思いはどうしてくれるんだ」と。
「この苦しみはネーミングの問題などではなく、確かに苦しいぞ」と。
「苦しみを確かに現実に、しっかりと感じているぞ」と。
「それはどうしてくれるんだ」と。
苦しみをなくしたいということですね。
苦しみを無くすことはできません。
現にあるものを無くすことはできません。手品じゃないので。
それはやはりネーミングの問題です。
苦しみに対して「問題」とか「忌むべきもの」「避けるべきもの」「痛いもの」「イヤなもの」というネーミングを施しているのです。
試しにその苦しみなるものに「チェリーちゃん」というネーミングを施してみてごらんなさい。
一気に可愛くなりませんか?
何ならもっと沢山やってこい、なんて気になりませんか?
苦しみは「それ」に対して、ネガティブな意味を付与しているだけの話です。
事実は「それ」はあくまで「それ」です。
苦しみもやっぱり、ネーミングの問題です。
…
「今ここにいれば、全てが解決する」
それは別な言い方をすれば、今ここにいれば、すでに何の問題もないことが実際にその目で「見える」ということです。
問題はもともと無いのです。
それはさっきのネーミング問題で見た通りです。
あとはそれが実際に見えるか見えないかだけの話です。
「今ここ」とは何か。
それは文字通り今ここです。
何の比喩でも言い回しでもありません。
「今」は「今」だし、「ここ」は「ここ」です。
あなたが実際に、事実としているのは、いついかなる時でも「今ここ」です。
それ以外の時や場所にいたことなどありませんし、そんなこと不可能なことはわかると思います。
つまり、それ以外の時や場所にいるとしたら、それは全て妄想です。
その「事実」を見てごらんなさいと。
妄想じゃなくて、事実を見てごらんなさいと。
過去でも未来でもなく、ここじゃないどこかでもなく、事実現実としてある唯一のもの。
「今、ここ」
ただそれだけの話です。
こういうと、「今ここ」を妄想する人も多いと思います。
「今ここってこういうことかな?」みたいな。
いかに我々が妄想に慣れすぎているかという話です。
妄想の中に生きている我々が、妄想から脱するのは意外と難しい。
それは、「今ここ」なるものが何か劇的な素晴らしい感動をもたらしてくれると「妄想」していて、その妄想に沿った何かを妄想でこしらえるという、そういう構造です。
あなたの期待しているような何物もありません。
「今ここ」は興ざめなほど、ただ単に「それ」なだけです。
今は今だし、ここはここです。
何の感動もありません。
興ざめなほど、ただ単に事実です。
「だから何」って言いたくなるでしょう。
でも何もありません。
あなたが期待するような何物もありません。
それは、「つまる・つまらない」「面白い・面白くない」の話ではないのです。
それはいつでも見えています。見えていない時などありません。
ただ、面白くないからスルーしているだけです。
事実は面白くも何ともありません。
だから、何か面白いことを妄想によってこしらえて、そこに生きています、普段。
そして妄想が暴走し、苦しい助けてとかやってます。
ただ単に事実に立ち戻れば、妄想は消えます。
すなわち、問題も苦しみも消えます。
この構造を理解するだけでも、少しは楽になるでしょう。
それは事実なのか、それとも妄想なのか。
この見極めから始めてみましょう。
事実において問題は無い。
ただそれだけの話です。
この世界に何一つ問題はないということは、素晴らしいことでも感動的なことでもなく、ただ単に事実なだけです。
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