ワンネスの説明

「比較」がなければ苦しみはない、という仕組みはご存知でしょうか。

苦しみはすべて「比較」から生まれます。

理想の状態と、そうではない現状との比較によって生まれるのが、苦しみです。

比較がなければ、苦しみはありません。

比較をやめるというのが、苦しみをなくす方法です。

 

ですから、苦しみをなくすために楽しみを増やすとか、瞑想するとか、成功を手に入れるとかは、的外れです。

どんなに楽しみを増やそうが、いくら瞑想しようが、どんな大きな成功を手に入れようが、比較をすれば苦しみは生まれますから。

どこにいようが、何をしていようが、成功者だろうが失敗者だろうが、有名人だろうが無名人だろうが、比較をすれば苦しみは生まれます。

 

逆に言うと、苦しみをなくすために必要なのは、「比較をやめる」ということだけです。

ビッグマネーもビッグサクセスも必要ありません。

努力も修行も必要ありません。

 

 

比較をやめる。

これって難しいことでしょうか?

多くの方が苦しみの只中にいるということは、きっと難しいことなのでしょう。

 

語感だけなら、とても簡単そうです。

「比較をやめる」

とてもとても、簡単そうです。

でもそうではない、ということですね。

 

 

そもそも比較とは何か。

それはAとBを比べる、ということですね。

 

ここで着目すべきは、AとBという「2つ(またはそれ以上)の要素」が必要、という点です。

要素が1個であれば、比較はできません。

逆にいうと、要素が2つ以上あれば、比較は「してしまうもの」です。

 

ついうっかり、ほとんど無意識に、ほとんど反射的に、どうしようもなく止めようもなく、してしまうものです。

だからこれだけ多くの人が、苦しんだままです。

 

比較をなくすためには、「比較をやめる」というよりも、「要素を1つにしてしまう」というほうが成功しやすいようです。

2つ以上の要素にまみれた状態で比較をしないでいるのは、ほとんど不可能なように思えますから。

 

 

要素を一つにする。

いわゆる「ワンネス」とか「大いなるひとつ」みたいなものですね。

「すべてはひとつである」と。

 

しかし、こういった専門用語を使うと、どうも話があらぬ方向に行ってしまう嫌いがあります。

専門用語を出すと、「専門的な話を論じる」という、何か我々の生活感覚とはかけ離れた別世界へと、頭が飛んでいってしまいます。

 

本来話したいのは「普通の話」です。

「田辺さんのところ、お子さん生まれたんですってね」みたいな、生活の延長線上みたいな会話です。

なぜなら我々は、「普通に」生活しているわけですから。

そしてその「普通の生活」をこそ、改善したいわけですから。

普通の感覚による普通の会話によって、普通に理解したいものです。

 

「すべてはひとつ」とか言うと、あまりにも突拍子もなくて、なんのこっちゃってなります。

「あなたも私も、大いなるひとつにおいてつながってるんですよ」なんて言われた日にゃあ、ほとんどホラーです。

そういう雲をつかむような専門的な話ではなく、普通の会話でこのことを説明すると、どうなるでしょうか。

 

 

それは「そのままでいい」ということです。

それでいい、何の変更も加えなくていい、ということです。

田辺さんのところにお子さんが生まれたなら、それでいいということです。

晴れなら晴れ、雨なら雨。

曇りのち晴れ、雨のち晴れ。

 

何かをどうにかしなくちゃいけないということはありません。

多数の要素を一つにまとめ上げる必要はありません。

「多即一なのか!そうなのかー!」と、解釈も納得もする必要はありません。

なんにもする必要は、ありません。

日常会話そのままで、OKです。

そのままの日常で、OKです。

何かを何かにする必要は、一切ありません。

専門用語も一切必要ありません。

説明も解釈も釈明も、一切必要ありません。

 

そのまんま。

ありのまんま、そのまんま。

 

それがすなわち、「大いなるひとつ」です。(笑)

 

多数の要素がそのままに、そのように、ある。

それがすなわち、そういうことです。

なんの解釈もいりません。

そのまんまです。

 

多数の要素がそのままにある状態を見ている時、多数の要素がそのままにあるという「全体」を見ています。

全体という一つを見ている時、比較は発生しません。

 

「田辺さんちに子供が生まれた」とか「隣のうちには子供がいない」とか「あそこんちの子供は優秀だ」とかを個別に見るとき、そこには比較が発生します、ほぼ自動的に。

 

「田辺さんちに子供が生まれた」

「隣のうちには子供がいない」

「あそこんちの子供は優秀」

 

これらは全て、ただ単にそうです。

ただ単に、そのようにある。

全ては同様に、ただ単にそのように、ある。

すなわち、全ては同列です。

ただ単にそのようにある様を眺めているとき、全てはフラットです、同列です。

 

そのポイント。

全てが同列に見えるそのポイント。

それって別に、何かをしていませんよね。

ただ単にそのまんま見ているだけですよね。

何のテクニックも秘技も駆使していません。

いえ逆にテクニックや秘技を駆使したら見えないでしょう。

「普通」に見ないと。

ただ単にそのままをそのまま見ただけですから。

 

そう。

普通ですね。

結局は普通です。

日常通り、通常通り。

「あら奥さん、今日も天気が良くて洗濯物がよく乾きますわね」という、そのまんまの日常。

 

逆なんですよ、つまり。

専門用語を駆使して、難しい論理を読み解き、解決への道を探るという、そういうエグい話ではなく、

お天気のよさに目を細め、シャツのしわをパンパンと伸ばしている鼻歌まじりの生活感そのものです。

 

そしてそれは、どっちでもいいし、何でもいい。

全てはそのままに、そのままです。

どう転んでも。

 

力んでも力まなくても一緒。

全てはひとつでもいいし、全てはバラバラでもいい。

比較はしてもいいし、しなくてもいい。

全てはそのままでいい。

 

なんて言われるまでもなく、全ては最初からそのままですよね。

 

そうではありませんか?

 

どうであるかぜひ、ご自身の目で確かめてください。

 

あなたは確かに見ている、全てがありのままにそのままである様を。

見た通りのままをおっしゃってごらんなさい。

 

「ああ、これがワンネスか」

 

確かに、その通り。(笑)

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