前回、「する」ことは重要ではないという話をしました。
では、我々には何もすべきことがないのでしょうか。
我々がすべきことは、「求める」ことじゃなくて「見る」ことです。
我々はつい「求める」ことに走ってしまいますが、全ての苦しみの元凶が「求める」ことです。
「ついつい求める」→「得られない」→「苦しい」→「(快楽や解放を)また求める」
こんな無限ループを繰り返しているのが、一般的な人生です。
我々がすべきことは、求めることをやめて、「見る」ことです。
何を?
事実をです。
目の前の事実には、全ての答えが提示されています。
いつでも、いかなるときでも、どこにいても。
あなたがそれに意識を向けさえすれば、いつでも答えはありありと提示されています。
ただ「見ていない」だけです。
見さえすればいいのです。
むき出しの事実を、ありのままの事実を。
観念や妄想にくらまされていない、そのまんまの事実を、です。
見ること、見続けること。
我々がすべきことは、それです。
…
ここで言う「見る」というのは「意識を向ける」ということです。
視覚によるインプットだけが「見る」ではありません。
「見る」とは、知覚する、感じる、捉える、というような意味でも言っています、ここでは。
何でもいいです。
目の前のコップ、風景、雑踏。
視覚だけでなく、音、匂い、触覚。
五感だけでなく、気持ち、思考、思い出。
ありとあらゆる対象が、目の前に広がっていますね。
それをそのまんま見てみましょう。
記憶や、それにまつわるストーリーや、妄想じゃなくて。
ただそれをそのまま、見てみましょう。
どうでしょう?
「それ」はただ「それ」ですね。
それはただそれでしかありませんね。
そうです、それはただそれなのです。(笑)
それがそこにあるだけです。
それ以上でも以下でもありません。
それは間違いなくわかりますね。
それと同時に「だから何?」という感想が浮かぶことも間違いないでしょう。(笑)
…
一体何を期待していますか? あなたは。
「だから何?」は、何かを期待しているから出てくる言葉ですね。
何か人生の全てが解決するような、すごい境地が開けるとでも思いました?
「だから何?」という感想が浮かぶということは、純粋に見ていないということです。
見ることによって、何か出てくるかな、すごい境地が手に入ったらいいな、という「期待を込めて」見ています。
見ることはそんな期待には応えてくれません。(笑)
あまりにも大勢の人が「見ること」をやらない理由はそれです。
「期待する」→「期待に応えてくれない」→「やめる」
です。
そして、こんな意味不明なことよりも、もっと興味を引く刺激や興奮のほうに、あっというまに意識は行ってしまいます。(つまり「求める」に戻るということです)
そういう意味で「ただ見る」って、意外と難しいのです。
人は「ただ見る」と言いながら、全然ただ見ていないのです。
つまり、「見る」に何かを「求めて」いるのです。
結局やっていることは「求める」です。
求めることはやめて、見ることをしようと言いながら、結局やっていることは「求める」です。(笑)
でもだからといって見ることをやめてしまったら、あなたの人生何も変わりません。
やはり見続けるしかないのです。
そして純粋に見ることができたなら、そのときあなたは純粋なのです。
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