「求める」よりも「見る」

前回、「する」ことは重要ではないという話をしました。

では、我々には何もすべきことがないのでしょうか。

「する」から「なる」へ

 

我々がすべきことは、「求める」ことじゃなくて「見る」ことです。

我々はつい「求める」ことに走ってしまいますが、全ての苦しみの元凶が「求める」ことです。

苦しみから抜け出す方法

 

「ついつい求める」→「得られない」→「苦しい」→「(快楽や解放を)また求める」

こんな無限ループを繰り返しているのが、一般的な人生です。

我々がすべきことは、求めることをやめて、「見る」ことです。

 

何を?

事実をです。

 

目の前の事実には、全ての答えが提示されています。

いつでも、いかなるときでも、どこにいても。

あなたがそれに意識を向けさえすれば、いつでも答えはありありと提示されています。

ただ「見ていない」だけです。

 

見さえすればいいのです。

むき出しの事実を、ありのままの事実を。

観念や妄想にくらまされていない、そのまんまの事実を、です。

 

見ること、見続けること。

我々がすべきことは、それです。

 

 

ここで言う「見る」というのは「意識を向ける」ということです。

視覚によるインプットだけが「見る」ではありません。

「見る」とは、知覚する、感じる、捉える、というような意味でも言っています、ここでは。

 

何でもいいです。

目の前のコップ、風景、雑踏。

視覚だけでなく、音、匂い、触覚。

五感だけでなく、気持ち、思考、思い出。

ありとあらゆる対象が、目の前に広がっていますね。

 

それをそのまんま見てみましょう。

記憶や、それにまつわるストーリーや、妄想じゃなくて。

ただそれをそのまま、見てみましょう。

 

どうでしょう?

「それ」はただ「それ」ですね。

それはただそれでしかありませんね。

そうです、それはただそれなのです。(笑)

 

それがそこにあるだけです。

それ以上でも以下でもありません。

それは間違いなくわかりますね。

 

それと同時に「だから何?」という感想が浮かぶことも間違いないでしょう。(笑)

 

 

一体何を期待していますか? あなたは。

「だから何?」は、何かを期待しているから出てくる言葉ですね。

何か人生の全てが解決するような、すごい境地が開けるとでも思いました?

 

「だから何?」という感想が浮かぶということは、純粋に見ていないということです。

見ることによって、何か出てくるかな、すごい境地が手に入ったらいいな、という「期待を込めて」見ています。

見ることはそんな期待には応えてくれません。(笑)

 

あまりにも大勢の人が「見ること」をやらない理由はそれです。

「期待する」→「期待に応えてくれない」→「やめる」

です。

そして、こんな意味不明なことよりも、もっと興味を引く刺激や興奮のほうに、あっというまに意識は行ってしまいます。(つまり「求める」に戻るということです)

 

そういう意味で「ただ見る」って、意外と難しいのです。

人は「ただ見る」と言いながら、全然ただ見ていないのです。

 

つまり、「見る」に何かを「求めて」いるのです。

結局やっていることは「求める」です。

求めることはやめて、見ることをしようと言いながら、結局やっていることは「求める」です。(笑)

 

でもだからといって見ることをやめてしまったら、あなたの人生何も変わりません。

やはり見続けるしかないのです。

 

そして純粋に見ることができたなら、そのときあなたは純粋なのです。

→続く

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