真実は学ぶものではありません。
自分の目で見るものです。
本を読んだり、動画を見たりして、真実について学ぶことはできます。
真実とはどういうものかを、理解することはできます。
しかしそれは、真実について知っているということであり、自分自身が真実であることとは違います。
真実について知ることは、真実であることの足がかりにはなりますが、そのことと実際に真実であることは、違います。
真実を知るよりも、真実であるべきです。
そのためには、知識を吸収するよりも、実際に見ることです。
真実を実際に見るのです、その目で。
…
真実とは何か。
あるがまま、そのままです。
では、あるがまま、そのままとは何か。
それは、「見たまんま」ということです。
「見たまんま」
それは皆さん、いつも見ていますね。
「見たまんま」ですから。
いま目に見えているそれが、そうだということです。
いつも見ています。
見ていない時などありません。
いつも見ています。
そこには何の感動もありません。
見たまんまに対して、何の感動もありません。
「無」です。
本当に何もありません。
思考によって捻じ曲げられる前の「見たまんま」は、ただ「それ」というものです。
何の感動もありません。
真実に対して、何か感動を期待しているかもしれませんが、何もありません。
その何もなさに居ることが、真実に居ることであり、真実であることです。
…
たいていの人は、感動を求めて簡単にそこから離れてしまいます。
何かもっと素晴らしいものを求めてしまいます。
だから真実に居ることができません。真実が見えません。
その「何もなさ」に実際に居ること。
感動を追っかけてアッチコッチさまようのではなく、その真実、その何もなさにじっとしていること。
それこそが「実地」です。
「学ぶ」のではなく「実際に見る」とは、そういうことです。
真実や悟りを求めて、あちこち出歩いてみたり、ネットを漁ってみたりするのではなく、それこそが地に足が着いた「実地」です。
もう一度言いましょう。
そのまんまの何でもなさにただ居ること。
それこそが、実地です。
…
それは、最も簡単すぎるがゆえに、最も実行しづらいことです。
人はもっとやりがいのあること、もっとすごいことの方に引き付けられます。
だから真実を知ることは難しいのです。
真実は何でもないものであり、ごく些細なことであり、掴む感覚すらないものです。
何のアピールもない、透明でありふれた存在です。
「探す」という行為によって見つけるような「対象」ではないのです。
すでにあるものを見つけることはできません。
それは見つけるものではなく、それと共に居るものです。
そして実際、いつでもそれと共にいます。
探すのをやめて、今目の前にあるそれと共に、ただ居る。
シンプルすぎて、透明すぎて、掴みたいという衝動をするりと抜けてしまうもの。
掴みたいという衝動を止めるのは、難儀です。
だから真実と共に居ることは、チャレンジングです。
難しいといっても、できなくはありません。
むしろ、誰にでもできます。
エベレストを登頂しろとか、100億稼げと言っているわけではありません。
できる、できないで言えば、誰にでもできます。
「学ぶ」ほうがやっている感じがありますし、理解が深まる「進歩」という感覚もあります。
でも、いったんその充実感は脇へ置いて、ただ単に「見る」ことをやりましょう。
我々は見ていながら、何も見てはいないのです。
「理解」なんていらないのです。
そのまんまは理解以前なのですから。
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