本当に信頼できるものとは何でしょうか。
そんなものが本当にあったら、素敵ではありませんか?
ちょっとそれはどんなものか、探ってみましょう。
それは、ころころ変わったり、消滅したりしないものですね。
ころころと変わるものや消えるものに、信頼はおけません。
思考や感情や信念、それから物理的なモノも、時間が経てば変わりますし、消滅もします。
これらは信用がおけませんね。
では一体、何が信頼できるというのでしょう。
それはきっと、目では見えない、知覚では捉えられないものです。
目で見え、知覚で捉えられるものは、必ず変化します。
目では見えない、知覚では捉えられない。
ではどうやって、それを知るのでしょう。
それはすなわち、「対象」ではないということです。
知覚できるものは全て「対象」です。
対象ではないとしたら、何でしょう。
それはもう知覚する主体、すなわち「自分自身」しかありませんね。
そう、「自分自身」です。
自分自身が、最終的な到達点です。
本当に信頼がおける場所は、そこしかありません。
それはもちろん、「自分の身体」や「自分の考え」とは違います。
それらはやはり、知覚対象です。
身体も考えも、感情も記憶も、「自分にまつわるもの」であり、知覚対象です。
それらではなく、それらが生まれる場所、それらを眺めている主体。
それが本当の意味での、自分自身です。
知覚する対象ではなく、知覚する「主体」です。
…
本当に信頼できるものを追ってみてください。
とことん、追ってみてください。
アレも違う、コレも違う。
そして最終的にそれは、アレでもコレでもなく、アレやコレが生まれる場所だと突き止めました。
それは自分の中心です。
距離ゼロの自分です。
少しでも自分から離れると、それはもう知覚対象です。
対象にならない、距離ゼロの自分。
それが最終的な、唯一の、信頼のおけるものです。(もちろん「もの」ではありませんが)
この世でそれだけが、真に信頼のおけるものです。
そこに居ること、そこに居続けること。
それが最終的なゴールですね。
安堵の時です。
お家に帰る時です。
…
ではどうやってそこに居ることができるのでしょう。
あなたはずっと、そこに居ますね。
そこに居なかったことなど、ありませんね。
永遠の今の中で、永遠にそこにいますね。
よそをキョロキョロしていると、見つかりません。
人は皆、何かを求めてキョロキョロしています。
あなたがキョロキョロしているそこです。
永遠のそこです。
はじめから居る場所です。
居なかったことなどない場所です。
そこは無ですね。
何も無いですね。
からっぽですね。
捉えることができるものなど、何もありませんね。
この安心感。
何も無いことの果てしない安心感。
何も無いことの永遠のくつろぎ。
何かがあるから、心がざわめきます。
何も無いなら、ひたすら安心です。
そこが、その場所です。
無が、最終的に信頼できるものです。
何も無い以上に信頼できるものはありません。
全幅の信頼を寄せることができます。
完璧に完全に、身をゆだねることができます。
ここが最終地点です。
ここがあなたの求めていた場所です。
自分の中心。
距離ゼロのそこ。
それはいつもそこに、不動不変です。
絶対の場所。
何かを探しによそに出かけるのをやめましょう。
あなたはいつでも、そこにいます。
近すぎて見過ごしてしまう場所。
あなたが求めていたものは、あまりにも近すぎて見過ごしていたそれです。
ただ静かに、静止しましょう。
そこに、居ましょう。
そこに居る気持ちをもって、静かにそこに居れば、そこはもう、そこです。
コメント
その無と言う領域、
自己のエッセンス溶け合う経験を
ザマディ「三昧」あるいはニルヴァーナ「涅槃」
何て言いますね、
私はまだそこに行く勇気はないみたい
そんな断固たる自分ではない
やっぱりすぐ妄想というか自我が自我意識が暴走して
それを抑えるのに心を費やしてしまう。