本当に信頼できるもの

本当に信頼できるものとは何でしょうか。

そんなものが本当にあったら、素敵ではありませんか?

ちょっとそれはどんなものか、探ってみましょう。

 

それは、ころころ変わったり、消滅したりしないものですね。

ころころと変わるものや消えるものに、信頼はおけません。

思考や感情や信念、それから物理的なモノも、時間が経てば変わりますし、消滅もします。

これらは信用がおけませんね。

では一体、何が信頼できるというのでしょう。

 

それはきっと、目では見えない、知覚では捉えられないものです。

目で見え、知覚で捉えられるものは、必ず変化します。

 

目では見えない、知覚では捉えられない。

ではどうやって、それを知るのでしょう。

 

それはすなわち、「対象」ではないということです。

知覚できるものは全て「対象」です。

 

対象ではないとしたら、何でしょう。

それはもう知覚する主体、すなわち「自分自身」しかありませんね。

 

そう、「自分自身」です。

 

自分自身が、最終的な到達点です。

本当に信頼がおける場所は、そこしかありません。

 

 

それはもちろん、「自分の身体」や「自分の考え」とは違います。

それらはやはり、知覚対象です。

身体も考えも、感情も記憶も、「自分にまつわるもの」であり、知覚対象です。

 

それらではなく、それらが生まれる場所、それらを眺めている主体。

それが本当の意味での、自分自身です。

知覚する対象ではなく、知覚する「主体」です。

 

 

本当に信頼できるものを追ってみてください。

とことん、追ってみてください。

 

アレも違う、コレも違う。

そして最終的にそれは、アレでもコレでもなく、アレやコレが生まれる場所だと突き止めました。

それは自分の中心です。

距離ゼロの自分です。

 

少しでも自分から離れると、それはもう知覚対象です。

対象にならない、距離ゼロの自分。

それが最終的な、唯一の、信頼のおけるものです。(もちろん「もの」ではありませんが)

この世でそれだけが、真に信頼のおけるものです。

 

そこに居ること、そこに居続けること。

それが最終的なゴールですね。

安堵の時です。

お家に帰る時です。

 

 

ではどうやってそこに居ることができるのでしょう。

 

あなたはずっと、そこに居ますね。

そこに居なかったことなど、ありませんね。

永遠の今の中で、永遠にそこにいますね。

 

よそをキョロキョロしていると、見つかりません。

人は皆、何かを求めてキョロキョロしています。

 

あなたがキョロキョロしているそこです。

永遠のそこです。

はじめから居る場所です。

居なかったことなどない場所です。

 

そこは無ですね。

何も無いですね。

からっぽですね。

捉えることができるものなど、何もありませんね。

 

この安心感。

何も無いことの果てしない安心感。

何も無いことの永遠のくつろぎ。

 

何かがあるから、心がざわめきます。

何も無いなら、ひたすら安心です。

 

そこが、その場所です。

無が、最終的に信頼できるものです。

何も無い以上に信頼できるものはありません。

 

全幅の信頼を寄せることができます。

完璧に完全に、身をゆだねることができます。

 

ここが最終地点です。

ここがあなたの求めていた場所です。

 

自分の中心。

距離ゼロのそこ。

それはいつもそこに、不動不変です。

絶対の場所。

 

何かを探しによそに出かけるのをやめましょう。

あなたはいつでも、そこにいます。

近すぎて見過ごしてしまう場所。

あなたが求めていたものは、あまりにも近すぎて見過ごしていたそれです。

 

ただ静かに、静止しましょう。

そこに、居ましょう。

そこに居る気持ちをもって、静かにそこに居れば、そこはもう、そこです。

コメント

  1. その無と言う領域、
    自己のエッセンス溶け合う経験を
    ザマディ「三昧」あるいはニルヴァーナ「涅槃」
    何て言いますね、
    私はまだそこに行く勇気はないみたい
    そんな断固たる自分ではない
    やっぱりすぐ妄想というか自我が自我意識が暴走して
    それを抑えるのに心を費やしてしまう。

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