「どう思っているか」の問題

またまた前回の続きになってしまいますが、

 

「何もいらん」と心底思えた時、何もいらない世界が実際にそこに広がっていることでしょう。

これってある意味、当たり前ですね。

何もいらないと心底そう思っている人の見る世界は、何もいらない世界だと。

 

同じく犬は恐いもんだと思っている人が見る世界は、犬は恐い世界だし、結局何とかなるって思っている人が見る世界は、結局何とかなる世界です。

犬が恐い人もいれば、犬が好きな人もいるわけですから、全員にとって同じ世界がそこにあるわけではありません。

各人それぞれの世界です。

「自分そのものの世界が、自分だけの世界として、そこに広がっている」

当たり前すぎてぐうの音も出ないほど当たり前の話です。

 

するとですよ?

 

その逆をいって、自分の住みたい世界に自分がなってしまえばいいと、そういう発想にもなります。

いま自分が住んでいる世界が気に入らないとしたら、それは、いまの自分自身の状態が気に入らないということです。

気に入らない世界を変えようと思って、自分の外側の世界に手を下すのは、うまい方法ではありません。効率が悪すぎます。

最も効率のいい方法は、自分自身に手を下すことです。

自分を変えれば、その通りの世界がそこに出来上がるわけですから。

 

さてここでです。

 

そんな自分の都合のいいようには思えないと、こうきますね?

そんな自分の思いたいようには思えないよと。ほとんど勝手にネガティブな思考が出てきて、自分の意思では止められないと。そう思っています。

そうです。

そう思っている、のです。

 

それは自分にとってだけの事実であり、そう思っていない人もたくさんいます。

「無理」って思っているその同じやり方で、「できる」ってなんで思えないのか、謎じゃないですか?

「無理」って思えるなら、同じように「できる」とも思えるはずです。

「いや、無理は無理だよ、当たり前じゃん」が可能なら、「いやできるよ、当たり前じゃん」と、どうしてならないのかと。

同じことじゃん? だってカッコ内を入れ替えればいいだけの話だから。

 

できない理由はそのままできる理由にすることができます。

「お金がないからできない」は「お金があったらできる」だし、「親に反対されるから無理」は「親が賛成すればできる」です。

無理な理由はそのまんま、できる理由でもあります。

どっちにするかは完全に自由なのに、なぜあえてイヤな方を選択する!?

 

 

実際にできるかどうかは関係ありません。

どう思っているか、です。

 

実際にできるかどうかを気にしているから、無理とか思うのです。

実際にできなくてもいいのです。

どう思っているか、です。

 

大事なので、もう一回いいます。

 

実際にできなくてもいいのです。

どう思っているか、です。

 

なぜなら、その世界を作るのに、実際にできる・できないは関係ないからです。

 

世界を作る原動力は「思っていること」であり、「できていること」ではありません。

 

目に見える「できていること」にこだわるから、「思っていること」がおろそかになります。

できていることは、もう終わったことです。もう形をとってしまったものです。

思っていることは、これから起こることです。これから形をとるものです。

もう終わったことに執心して、これから起こることをおろそかにするとは、一体何事ぞ?

 

もう一回この仕組みをちゃんと確認してみてください。

理解できない点がありましたか?

当たり前すぎるほど当たり前の話ではありませんでしたか?

 

実際にできる、できないは別として、どう思うかは完全に自由です。

なんでそれをあえて自分に不利なほうに思う必要があるのか。

完全に謎じゃないですか?

 

やりたいことがあるなら、「できる」って思っていればいいじゃないですか。実際にできるかどうかは別にして。

できるって思ってる人に、それにふさわしい世界が展開していきます。

その人が実際に思っている世界が展開するのは、最初に見た通りです。

 

「何もいらん」と心底思えた時、何もいらない世界が実際にそこに広がっている。

これって当たり前ですよね。

 

自分は一体どういう世界を生きたいのかと。

つべこべ言わずにストレートにそれを選択すればいいじゃないかと。

 

できる、できないの問題じゃない。

どう思っているかの問題です。

 

 

コメント

  1. ああ より:

    できないって、思っていたことをシンプルにできる。って変えたとします。

    さらっと思考を真逆に変えたとしても、無意識というか本音はいやいや無理だよ、できないよって本音がでて、本当の気持ちというか思考は結局はできないになってしまうケースが大半なんじゃないかなって感じました。

    できないをできるに変えるより、例えば少しスライドさせるようなやり方が信じやすい気もします。


    嫌いな人間を好きに変える
    (上の話のように180度反転は難しい)

    嫌いだけど、良い面もあるかもしれない

    嫌いだけど、以前優しい一面があった

    嫌いって決めつけてたけど、俯瞰すると少し良い面も見えてきた

    私の思い込みで本当はもっと仲良くなれるかも

    少しニュートラルに感じてきたな

    こういう感じで見るポイントを変える?と思う面も受け入れやすいのかなーとも感じましたが、先生のご意見聞きたいです(笑)

    • こーへ より:

      素晴らしいご意見をいただきました。ありがとうございます。

      さて、今回の話のポイントですが、それは「何が一番わくわくするか」ということです。
      できる・できない、でどっちを選ぶか、みたいな言い方をしてしまいましたが、この話の核心は何かというと、「最もわくわくすることを選択する」ということです。
      できないよりできるほうがそりゃあわくわくするだろうという前提でお話をしてしまいましたが、核心はそっちです。

      つまり、今回頂いた例で言うと、私は嫌いな人を好きになろうとするよりも、嫌いな人は嫌いなままでいいと認めるほうがわくわくするので、嫌いなものは嫌いでいいという選択をします。
      頑張って好きになろうとするのは結構キツいですが、嫌いなままでいいって思えたならホッとするからです。
      そしてもちろん逆に、嫌いな人を好きになれた方がわくわくする、という人もいるはずです。

      ここが、その人なりの選択です。

      「何が一番わくわくするか」「何が一番自分にとって楽か」「何が最も自分らしくいられるか」
      結局選択の基準はそれです。

      で、そうすると、今回ご提案いただいたスライド式みたいな発想も出てこないと思います。
      こういう発想は、無理なことをどうにかしてやるための苦肉の策として出てくる発想だと思いますので。
      「何が一番わくわくするか」で選ぶならば、パッと最もおいしい選択に飛びつくはずです。
      段階を経るとか、そういう発想は浮かばないはずです。

      できる・できないの選択みたいな言い方をしてしまったがために与えてしまった誤解だと反省しております。
      わくわくで選択するなら、できないほうを選ぶことも、そりゃあ当たり前にあるはずです。

      貴重なご意見をありがとうございました。
      気づかなかった視点に気づかせていただけるので、大変助かります。m(_ _)m

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