何のために生きているのか、という話

「何のために生きているのか」

生きているとちょいちょいこの疑問は出ますね。

何のために生きているのか。

別に楽しいこともないし、あったとしてもすぐに過ぎ去ってしまう。

苦しいこともあるけれど、まあそれも過ぎ去ってしまう。

後に残るのは何か?

何も残らない。

「何も無い」という感覚が、そこにはあります。

ある程度生きてみて、いろいろ経験してみると、結局は何も無い、という感覚が残ります。

 

この「何もなさ」ということが、人生の真実ということになるでしょう。

何も無いからこそ、いろいろなことがやってくることが可能です。

何かであったなら、何か以外では無いということなので、何かでしかあり得ませんが、何も無いならば何かではないので、何でもありうるということです。

ベースが何も無いだから、何であってもよい、ということになります。

何も無いを認めるということは、何もかも認めるということです。

 

ある程度生きてみて、いろいろ経験してみて、結局のところ何も無いじゃんかという感想を抱いたならば、それはとても素直な、正確な感想だと思います。普通はそう思うと思います。

そしてまた、何も無いという認識があるからこそ、何かでそこを埋めようとします。

空しさを埋めようとして、何か趣味を作ったり、恋人を求めたり、仕事に精を出したり。

逆にその空しさの中に入っていってみようという発想は、なかなか生まれません。

 

しかしですよ、非常に興味深いと思いませんか? その空しさは。

これは一体何なのかと、単純に興味が湧きませんか?

この、何も無いの中に入っていくことが、瞑想などと呼ばれていることになるでしょう。

昔の宗教の人なんかは、坐禅を組んだり瞑想したりして、この無に分け入ったのだと思います。

 

無の中に分け入ると、どうなるでしょうか。

無に馴染むと、「なんでもよい」という感覚が生まれます。

ある意味ハッピーな感覚といえるかもしれません。

それは自由っぽくもあるし、楽ちんっぽくもあります。

ほどける、ということでしょうか。

「無に帰す」ということです。

楽しくなって、ひとりでに笑い出してしまうかもしれません。

余裕と自由と気楽さが生まれることでしょう。

「何でもいいじゃん」と真に思えたなら、それは楽だろうと思いますね。

 

瞑想というと、何か一点に集中して、ぎゅっと何かを追い求めるみたいな感覚があるかもしれませんが、本当は逆です。

何にも集中しないで、霧散させていく方向です、どちらかというと。

ファーっと薄まって消えていく感覚です。

消えてしまったら楽では無いですか。

何かをどうこうしなければいけない何かを、ファーっと霧散させてしまったら、ラクではないですか?

 

人生が無だなぁと思う感覚は、すでに真実を捉えています。

ある程度生きてみたら、無だなぁという感覚は、当たり前に生まれると思います。

それを全力で否定しようと躍起になる方向を選択する人が圧倒的に多いですが、無に入っていくという選択もある、ということを忘れてはいけません。

宇宙は静かに、佇んでいます。

 

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