自分というものの事実

ごく当たり前の事実。

あなたは自分から離れたことはないですね。

自分から離れて、他の誰かになったことはないですね。

生まれてこのかた、ずっと自分でしたね。

自分の目で見えるものだけを見、自分の耳に聞こえるものだけを聞いてきた。

あなたは自分以外にはなれません。

自分の五感や思考や感覚、それだけがあなたにとっての全てです。

見たもの、聞いたもの、考えたこと、感じたこと。

それがあなたの全てです。

つまり、あなたにとって世界とは、あなたです。

あなたの五感や思考や感覚、それが世界の全てです。

 

そして、見たもの、聞いたもの、考えたこと、感じたこと。

これらは「今」起こっています。

今見ているもの、今聞こえるもの、今考えたこと、今感じたこと。

今以外に見たものは、記憶であり、想像です。

全ての思考や感覚は、「今」起こっています。

 

「あなた」や「あなたの人生」を客観的に描出するなら、そういうことになります。

今、ただむらむらと泉のように湧き起こる思考や感覚。

それです。

「あなた」とか「世界」とは、それです。

 

そのことに意味はあるのでしょうか?

「意味」なるものはひとつの「解釈」であり、それすらただ泉としてむらむら湧いてくるだけです。

全てはただ、むらむら湧いてくるだけです。

それが誰も否定できない、見たままの事実ですね。

 

その湧出をただ眺めてみてください。

ただむらむらと湧出する様を、ただ眺めていてください。

すなわち、事実に立ち返るということです。

妄想や空想の中で右往左往するのではなく、ただ事実を、ただ眺めてみましょう。

しばらく、しばらく、しばらく、眺めてみてください。

 

どんな感じですか?

どんな感じもないですね。

だってどんな感じも無いところですから、そこは。

「感じ」なるものは湧出するほうのものであって、それを眺めているほうには、ありません。

 

面白くもなければ、つまらなくもありません。

「面白い」「つまらないは」湧出するほうのものですから。

 

愛、至福、真の平和、神。

それらでもありません。

何かと名付けた瞬間に、それは湧出側です。

 

その「何でもない」に、ただじっとしていてください。

するとあなたは本当に、何でもないになります。

妄想や空想であったあなたは、事実そのものになります。

 

妄想や空想に連れ去られないで、ただ事実に居続けると、あなたは事実そのものになります。

それはすなわち、「本当のことになる」ということです。

もともと本当のことであったあなたが、もともとの位置に還ってきた、ということです。

 

還りたかったら、還れます。

事実に居ることによって、事実としての自分に還れます。

とてもシンプルな話です。

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