前回「見ると何もないことがわかる」というお話をしましたが、これは一般的な感覚では理解できないかもしれません。
「だって現にそこにあるじゃん。目で見えるし手でも触れる」
これが一般的な感覚です。
つまり一般的に人は、目で見えるもの、手で触れるものを「ある」と言っています。
でも実際それは、「ある」というよりも、「視覚に現れている」「触覚に現れている」です。
スクリーンに浮かび上がる映像のように、一時的にそこに現れているに過ぎないのです。
次の瞬間にはもう、違うものが現れています。
感覚、感情、思考。
そういったものがスクリーンに浮かび上がっては、消えていきます。
「ある」ということ自体が無いのです。
いや、ここで「ある」と言えるものは「スクリーン」だけです。
浮かび上がる映像は、虚像です。
実際に「ある」と言えるのは、それらが映るベースとなるスクリーンだけです。
では、映画でいうスクリーンに相当するものは何でしょう。
それは「意識」です。
意識があるからこそ、我々は感覚や感情や思考に気づくことができます。
世界は全て意識の上に展開しています。
そういう意味で、スクリーンとは「意識」です。
映画においてスクリーンだけが実際に物理的に存在するのと同じような感覚で、意識だけは「ある」と言えます。
「現実」は、意識というスクリーンの上に上映される映画と言えるでしょう。
…
意識の上に、世界は展開しています。
「何もない」とは、その意識の上に展開する感覚、感情、思考には実体がないということです。
それらは、スクリーンに投影された虚像ですから、捉えられないし、掴めません。
掴んだと思ったそれは「感覚」であって、その感覚は、境界もなければ色も形もない。
色や形という現れはあるけど、色や形という実体はない。
実体は何ひとつない。
何ひとつ掴めない。
どうですか? 事実をありのままに描写すると、そういうことになりませんか?
いや、事実は言葉にはなり得ないですね。
言葉になり得ないそれを、あなたも実際に見てください。
「見る」という言い方も変かもしれませんが、体感してください。
掴めないものを、掴めないままに、感じてください。
ありのままの事実を、単純に見てください。
あらゆる現象の空疎性、その虚像性を実際に体感してください。
というかそれはもう、何ら大げさなことではなく、もう見たまんま、そのまんまです。
本来何もない真っ白なスクリーンに、現象が投影され、そこに実際にはありもしないストーリーという幻を出現させているのです。
我々はストーリーに一体化して、映画の中の主人公になりきって、架空の痛みを、架空の喜びをあたかも現実のように感じながら生きています。
実際には何もありはしません。
実際にあると言えるのは、意識という名のスクリーンだけです。
全ては意識という名のスクリーンに投影される、架空の感覚、感情、思考であり、それらによって織りなされるストーリーです。
実際に我々が居るのは、ストーリーの中ではなく、映画館の座席の上です。
あたかもストーリーの中に居るような気がしていますが、実際に、現実として居るのは、映画館の椅子の上です。
そんな感覚。
「我に返る」とも言えそうな、その感覚。
事実を見て感じるのは、そんな感覚です。
…
さて、それがわかったからといって、どうだというのでしょう。
相変わらず映画の上映は続きます。
死ぬまで続きます。
ただ、今までリアルな現実だと思っていたものは、映画だということがわかりました。
リアルでもないし、現実でもありません。
今までは映画の中に入りきって映画のストーリーと一体化し、主人公となりきって実際に汗水流して奮闘していましたが、今はただ座席にゆったりとくつろいで「見ている」だけです。
「へーそうなんだー」とか「ははーん、なるほどね」とか言いながら、穏やかに映画を楽しみます。
だって映画だから、架空のお話だから。
その時あなたはどうですか?
「穏やか」に「楽しんで」ますね。
今までのあなたは、心臓をバクバクさせながら、どうにもならないストーリーをどうにかしようと、スクリーンにへばりついて右に左に大奮闘していましたが、今は余裕でくつろいで楽しんでいます。
この違い。
これが映画を正しく観賞する態度です。
映画はちゃんと椅子に座ってポップコーンでも頬張りながらくつろいで楽しむものです。
決してスクリーンにへばりついてどうにもならないストーリーをどうにかすべく金切り声をあげてジタバタするものではありません。
ストーリーは勝手に展開していくんだから、だまってそれを見ていればいいのです。
勝手に展開するストーリーは変えようがないし、その必要もないのです。
ただくつろいで見ていればいいのです。
事実を見る、真実を知るとは、そういうことです。
本来の在り方に戻る、ということです。
今まで映画館にいて、おかしな観賞の仕方をしていましたが、本来の観賞の仕方に戻るということです。
事実をありのままに見ると見えてくるのは、そういうことです。
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