思考と幸せの関係

(前々回・前回からの続き)

前々回:幸せとは何でしょう、そしてどうすれば幸せになれるのでしょう

前回:エゴを満たすことと本当の幸せの違い

 

「全てOK」「あるがままで完璧」というと、「じゃあ何をされてもOKなのか」という疑問も出るかと思います。

襲われても、盗まれても、叩かれても、何されてもOKなのか? と。

これもまた前回と同じで、巻き込まれているからこそ出る質問です。

 

普通そんな場合、放っておいても勝手に然るべき手段を取るはずです。

目の前に石が飛んできたら、考えるまでもなく避けるでしょう、普通。

考えるまでもなく、ごく自然に対処するはずです。

それを「いいのか?悪いのか?」と決めたがるのは、エゴの仕事です。

 

「じゃあ何をされてもOKなのか?」は妄想です。

起きてもいないことに対する妄想です。

事実は、起こることが起こる時に、起こるべく起こるだけなのに、「そうなったらどうしよう」という恐怖が、予防線を張らせるのです。

つまり、エゴの仕事です。

 

 

恐怖、不安、恐れ。

我々の普段の行動において、これらに対処することは、よくあることです。

それ自体は別に普通のことです。

 

しかし、以前も言いましたように、人間はありもしない恐怖、「そうかもしれない」という予断、起こってもいない不安に対してすら、行動を起こします。

「人生のしくみ」と「本当の自分を生きる方法」

ありもしない「幻」に対して、反応するのです。

 

これは、人間の思考能力のなせる業です。

思考によって、実際にはありもしない幻をデッチ上げ、それに対して行動を起こすという、一種の病的様相です。

人間の悩みや恐れは、ほとんどが妄想です。

 

 

最近、「彼女なしでは生きられない」と、元交際相手の女性を刺し殺すという事件がありました。

「彼女なしでは生きられない」

本当にそうでしょうか??

 

そんなことがあるはずありません。

実際彼女がこの世からいなくなっているのに、彼は生きています。

 

現実に、事実として、彼女なしで、彼は、生きています。

 

事実は彼女なしでも生きていけますし、彼女以外の誰かでも生きていけます。

それを「彼女なしでは生きられない」と思い込むのは、妄想です。

事実はそんなことあるはずもありません。

 

 

人間、大なり小なり、こういう妄想を抱いています。

思考能力がある限り、それはそうなります。

思考能力とは一種の「妄想能力」です。

今、現に目の前にない事実をデッチ上げる能力です。

 

その能力は言い換えると、想像力、創造力とも言えます。

その能力によって、人間は今まで無かった便利なものを次々と生み出し、それによって豊かな生活を手に入れました。

 

つまり、諸刃の剣なのです。

思考能力は、創造的にも破壊的にも使い得るのです。

 

 

妄想がひどくなると、考えられないような事態が起こり得ます。

先ほどの殺人事件もそうですが、無差別テロなんて、かなり行き過ぎた妄想の所業です。

事実とはあまりにもかけ離れた妄想の中で、エゴが奮闘しているのです。

 

脳内に構築されたありえない状況。

そのありえない状況が生み出す、ありえない反応。

まわりの人から見て「ありえない…」「考えられない…」ということも、本人にとっては至って然るべき反応です。

 

妄想が持つ破壊的な面、不安、恐怖は、大なり小なり誰もが持つものです。

こんな極端な例ではなくとも、「あの人は私を嫌っているに違いない」とか「自分だけが損をしている」といった些細な妄想は、誰の中にもあります。

 

 

こういった無差別テロや犯罪は、自然界にはありません。

「妄想」がないからです。

 

動物達は、創造力が生み出す豊かな生活は享受していませんが、そのかわりに苦悩も犯罪もありません。

思考能力がほとんどないからです。

 

思考能力を持つ我々は、豊かな生活を享受すると同時に、苦悩や犯罪も甘受しています。

思考能力は「諸刃の剣」なので、そういうことになります。

豊かさと苦悩は表裏一体であり、同時に引き受けるしかないのです。

 

 

「いやいやそんなことはない、みんなの努力によって、思考を創造的にのみ使うことができる」とお考えでしょうか?

その時、それが「考え」であることにお気づきでしょうか?

つまり、それもやっぱり「思考」です。

 

「思考」とは何でしたっけ?

それは「ないものをデッチ上げる能力」でした。

どんな思考も、あくまでデッチ上げです。

 

思考について、思考を使って、思考しているのです。

ぐるぐるの渦に巻き込まれているのです。

その思考は、やはりデッチ上げられた幻であり、事実とは無関係です。

 

事実はただひたすら、現に目の前に見える通りです。

見たまんま、そのままです。

→幸せな人が幸せである理由

 

思考という幻の中で右往左往するのではなく、事実を見ましょう。

幻の中で幻を重ねて幻の幸せを構築するのではなく、ただ単に事実を見るのです。

真の幸せは、努力して構築するものではなく、もともとあるものです。

→ 幸せとは何でしょう、そしてどうすれば幸せになれるのでしょう

 

思考の中に幸せはありません。

思考は「デッチ上げる」能力です。

幸せはデッチ上げるものではありません。

 

デッチ上げた幸せは、幻の幸せです。

ですから我々は、いつまでたっても幸せを追い求めています。

手に入れたと思ったそれは、いつも幻だったでしょう?

 

あなたがやるべきは、思考を使って幸せをどうこうするのではなく、むしろ思考から脱け出すことです。

デッチ上げるのをやめて、もともとあるものを見ることです。

 

そこにはどんな質問もありません。

どんな解答もありません。

あるものがただ、あるだけです。

幸せも一種の概念であり考えですから、そこを脱け出すと、もはや幸せもクソもありません。何もありません。

 

ただ、それ。

です。

 

思考から脱け出してみてください。

そして、そこにあるものを見てください。

 

「何もない」しかありません。

「何もない」の問題のなさ、それで良さ。

それを便宜上「幸せ」と呼んでいます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました