事実を見ると、問題はどこにも発見できない

事実をよく調べてみることが、全ての解決です。

我々は普段、起こる出来事、目に見える現象、感じる気持ち、頭に浮かぶ思考、そのレベルの中で生きています。

いわゆる「現象」のレベルです。

 

ああ、いいことが起きたなぁ、悪いことが起きたなぁ、楽しいなぁ、嬉しいなぁ、悔しいなぁ、と。

それらは何でしょうか。

それら感覚が捉えるいろいろな出来事、それは一体何でしょうか。

ただ「いいなぁ、いやだなぁ」のレベルで終わるのではなく、さらに突っ込んで、それらが一体何であるかを、よく調べてみましょう。

 

 

まず、それらは「なぜ」起こるのでしょうか。

 

理由はありませんね。

例えば、「いや、宇宙の大いなる意思が働いているんだ」と考えたとしましょう。

それも1つの「考え」であって、現象の1つです。

それが「なぜ」起こるのかは、知りようがありません。

我々にわかるのは、あらゆる出来事が「ただ起こっている」ということだけです。

それがごく正直に、事実を見たときに言えることです。

 

「私が右手を上げようと思ってそうしたから、右手が上がった」

ではなぜ右手を上げようと思ったのでしょうか。

最終的には何もわかりません。

ただ起こったとしか言えません。

なぜ起こったかの解釈も、ただ起こったとしか言えません。

 

つまり、コントロールは不可能です。

コントロールしているという感覚すら、ただ起こっています。

このブログを書くこと、そしてこのブログを読むこと、それすらただ起こっています。

どこまでいっても、ただ起こっています。

「やっている」という感覚も、ただ起こっています。

 

つまり、我々は何もやっていないのです。

事実を正直に見ると、そういうことになります。

我々は何もやっていない、物事はただ起こっている、そういうことです。

 

あなたの見た感じはいかがでしょうか。

これについて何か意見はありますでしょうか。

その意見は、あなたが考えたのでしょうか、それともただ起こったのでしょうか。

 

 

物事がただ起こっているのなら、我々にはもうやるべきことはありません。

ただ起こっているのなら、やることはもうありません。

せいぜい起こるのを見守ることくらいです。

 

どうでしょうか、事実において、問題は何もないのではないでしょうか。

問題どころか、何もありません。

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