苦しみと平安、そして真の幸せ

苦しみというものは、拒否であったり、抵抗ですね。

そして平安というのは、認めることであったり、それでいいと思うことですね。

この、拒否と許可のせめぎあいの中で生きているような気がしています、我々って。

苦しんだり、幸せな気持ちになったり、あっちにいったりこっちにいったりしながら、生きている感じです。

 

それはいわゆる、現象のレベルの話です。

現象のレベルとは、目に見えること、聞こえること、考えること、感じることといった、「具体的」なことです。

具体的なレベルで我々は、苦しいなと思ったり、幸せだなと思ったりしています。

 

具体的なレベルは、何でも起こります。

苦しいことも、楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも。

 

では、現象レベルではないレベルとは何でしょうか。

それは、それら現象を眺めているレベルです。

喜怒哀楽や思考や感覚を、ただ眺めているレベルです。

→自分というものの事実

 

たとえば、何丁目何番地何号という住所に、いろいろな家や建物があったりしますが、それらはすべて「東京都」に含まれているようなイメージです。

何丁目何番地何号という喜怒哀楽や出来事は、すべて東京都に包括されているようなものです。

現象を包括するレベル、その中に全ての現象が存在する「場」とも言えるでしょう。

 

現象のひとつひとつに同化するのではなく、それらが起こる「場」として存在するなら、あなたは現象レベルにおける喜怒哀楽や思考や感覚から解放されます。

あなたはそれらが起こっている「場」であって、それら自体ではありません。

個々の現象に対して上位にあるそのポジションは、個々の現象に対して優位にある、余裕がある、と言えます。

それは、大人が子供に対して余裕があるのと同じような感覚です。

 

どんな現象が起こっても、「ふむ、なるほどね」というポジションです。

個々の現象に一体化してないし、振り回されてもいません。

自分という箱庭で起きる出来事を、ただ眺めています。

 

 

人はよく「上のレベルを目指す」と言いますが、本当に上のレベルに行くとはそういうことです。

 

例えば何かのコンテストでの、上位入賞者と落選者。

この場合、現象レベルでは上位入賞者が上で、落選者が下ということになりますが、「場」のレベルから見たら、どっちも一緒です。

どっちも、それなりの経験、それなりの現象、それなりの出来事という意味で、同列です。

どっちが上も下もありません。

 

そのように見れる立場が、真の一個上のレベルということです。

現象の中で上が下がと言っているのではなく、その現象の枠組み自体を抜け出してしまうのです。

別次元に移行するのです。

 

そこから見たら、全ては同列です。

全てはそのままに、全てOKです。

全てはただそうだというだけですから。

拒否・許可でいうと、全て許可です。オールOKです。

 

現象における許可は、気分や状況、価値観や性格など、いろんな要素に左右されますが、ここでの許可は全て許可です。絶対の許可。

つまり、「許可=平安・幸せ」ならば、絶対的な平安、絶対的な幸せです。

 

これが、現象内における苦しみの対比としての幸せではなく、絶対的な幸せです。

(現象内で起こる幸せとは質が異なるので、幸せと呼ぶのも変かもしれませんが、便宜上幸せと呼びましょう)

 

幸せを求めるなら、現象内で得たり得なかったりできる一時的な幸せではなく、その一個上のレベルを目指しましょう、という話。

コメント

タイトルとURLをコピーしました