やめてしまえる、ということを、ご存じでしょうか。
走っている時、走るのをやめてしまったら、止まる。
普通はそう思います。
しかし実際は、走るのをやめても、走り続けます。
しかも今までよりも、もっと上手に。
私たちは、やらなくても、やりつづけます。
やめてもそれは、止まりません。
そんなこととても、信じられないですね。
信じる必要はありません。
試してみれば、わかることです。
私たちは自分の心臓を動かしてはいないですが、心臓は動いています。
自分の人生も、動かさなくても動きます。
「やめてしまえる」のです。
やらなくていいのです。
走るのをやめたら、もっと上手に走れます。
何もしなくても、勝手に走っています。
私たちは、何もしなくていいのです。
出来事は、勝手に起こります。
必要なことは、判定しない、ということです。
それが良いことなのか悪いことなのか、出来事の性質を判定しないということです。
出来事の意味は、私たちの判定を超えています。
私たちの判定によって、性質を捻じ曲げてしまっては、元も子もありません。
それが起こったのなら、それは「そう」だということです。
判定は無用です。
それがつまり、「やめる」ということです。
頑張って自分がコントロールしていないと、物事はまずいことになる。
良いこと、悪いことを判定し、そしてそれを正していかないと、いい人生を送れない。
このような方法論をもとに、これまでやってきたことと思います。
ですから、「やめてしまえる」ということが、にわかには信じられないと思います。
これまでのやり方の、真逆ですから。
ただ単に試してください。
「ちがうじゃん」ってなったら、また元のやり方に戻ればいいので。
自分や他人に焼いていたおせっかいを、やめてみてください。
そして起こることにも、判定を下さないでください。
「ほらやっぱりマズいことになったじゃん」と思わないでください。
思ったらその時点で終わりです。
出来事に判定を下した時点で、それはそうなってしまいます。
それはこれまでのやり方と同じです。
努力などしなくても、私たちは勝手に生きています。
心臓が勝手に動いているように。
私たちは「判定」によって、出来事の性質を確定しています。
判定しなければ、出来事に性質はありません。
そして判定は、自らを貶める結果になり得ます。
本当はそんなことないのに、判定によって、自分で自分の地位を低めてしまうのです。
かといって、高める必要もありません。
そんな、何かをどうこうする必要など一切ないのです。
「やめてしまう」のが一番です。
何もする必要はありません。
やめてしまっても、自動的に走り続けます。
「おお!走ってる」
しかも楽に、スムーズに、気持ちよく。
この、「手を離す」にも似た感覚を、掴んでください。
がっちりと掴んでいるその緊張感と落ちたらやばいという恐怖が逆に自由な運動を阻害しています。
離すと自動的にうまくいきます。
宇宙の伸びやかな運動を、自ら阻害していることに気づいてください。
そして味わってください。
この楽チンでハンパない自由を。
別に何がどうなったっていいじゃないですか?
大事なものなんて何もないじゃないですか。
そんなことよりも、思いっきり息が吸えるこの感覚と、どこまでも自由に手足が動かせるこの感覚を味わってください。
誰の抑制もなく、何の制限もなく、自由に伸びやかにいられるこの感覚以上に大事なものがありますか?
それはもともとそうなので、異常なまでに簡単に手に入ることです。
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