事実は相対ではなく、絶対です。
普段我々は、相対の中で生きています。
「誰よりも誰が美人」「誰よりも誰がお金持ち」「昨日の経験より今日の経験のほうが良かった」などなど。
そういった「相対」なるものは、「絶対」の中で展開しています。
その関係は、「座標」と、「座標内の点」のようなものです。
あるポジションがあり、また別のポジションがあります。
いろんな点が座標内に散らばっています。
普段我々は、そんな座標内の点に意識を集中して生きています。
私はここで、あの人はそこ。
あれはあそこで、これはここ、と。
そんな座標内の点は全て、座標に含まれています。
これに関して例外はありません。
そういう意味で、座標が「絶対」で、座標内の点が「相対」ということです。
普段相対に生きているように感じている我々は、必ず絶対の中にいるのです。
いつもはそんなこと気にしていませんが。
…
普段我々は相対の中で生き、苦しんだり喜んだりしています。
そして苦しみや喜びは、比較するものがあるからこそ発生します。
座標内の上下左右を比較するから、そこに「意味」なるものが発生します。
比較するものがなく、「それ」しかないなら、それはもう「何」とは言えません。
何の意味も発生しません。
それが、座標そのものの絶対性です。
座標は「それ」しかありません。
座標は位置づけられるものではなく、位置づけるものです。
すべては座標内に展開します。
この「座標」の存在に気づいてみましょう。
そこではすべてがフラットです。
座標内の点に、意味はないのです。
ただ「そこ」というだけで。
座標内の点に、重い軽い、良い悪いはありません。
ただ「そこ」というだけです。
座標内の点の位置から見ると、上が見えたり下が見えたり、横が見えたりします。
点の視点から見ていると、「比較」が発生します。
上だ下だ、近い遠い、と。
でも「座標」の視点で見れば、すべてはフラットです。
どこも一緒です。
座標内に位置はありますが、座標自体に位置はありません。
座標とは、すべてがそこにおいて展開する「場」です。
座標内の「点」はすべて、座標という「場」において展開しています。
あなたは今、どのポジションから物を見ていますか?
大抵は「点」にいますね。
「彼女のあれがうらやましい」「僕もああなりたい」「なんで俺はみんなに比べてできないのだろう」
それは「点」にいるからこそ見える風景です。
点にいたならば、どうしたってそう見えます。
だからこそ、「努力して、奮起して、今いる点からあの点を目指しましょう」という発想にもなります。
それが今までの普通の生き方です。
今いる点から、望ましいという点に移動すること。
それが今までの生き方です。
でも、座標という「場」の視点から見たら、それはまるっきり無意味です。
座標の視点から見たら、どの点もフラットです。
今いる点だろうが、望ましいという点だろうが、どこも一緒です。
あなたもきっと、今までの生き方に従って、ある点から望ましい点に移動した経験があることでしょう。
何かを達成した、何かをゲットした、何かになることができた。
でも、達成時の一時的な喜びが去ったあとは、どうでしょう?
何か空しさに襲われませんでしたか?
あるいは、そのことはすぐにどうでもいいことに成り下がりませんでしたか?
それは「どの点も一緒である」と、心の奥底で知っているからです。
座標の視点から見ると、どこも一緒です。
どこからどこに移動しようが、移動しまいが、全部一緒です。
「人間の身体」という全体の視点で見た場合、脳ミソを循環している血液と、指先を循環している血液に差はありません。
そして、血液が循環して、さっき指先を巡っていた血液が今度は脳ミソに流れたとしても、それはただそうだというだけです。
何をやっても、やらなくても、全部一緒です。
座標上のある1点は、ただ「そこ」であり、それがどこかに移動したなら、今度はその場所でまた、ただ「そこ」です。
何でもいいし、どうでもいいのです。
全ての点は、見え方は様々であっても、根本的には全部一緒です。
何も変える必要はないし、もちろん変えてもOKです。
全部一緒です。すべてフラットです。
…
どうでしょう、このラクさ加減。(笑)
これが世界の実態です。
普段「点」に意識を集中していますが、その「点」はすべて、座標内に展開しています。
そして座標にとっては、すべての点は一緒。
そのことをただ思い出す、ただその視点に戻る。
点に集中しすぎて人生の意味を見失いそうになったら、そこに戻ってみましょう。
「ああ、そもそも人生の意味なんてないんだな」と、改めて思い出されることでしょう。(笑)
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