本当のこと

本当のことを言いましょう。

 

本当のこととは「真実」ですね。

本当のことを話せば、真実に行き当たります。

本当のことをしゃべってみましょう。

 

 

あなたは今、いろいろな状態にあります。

嬉しい、楽しい、悲しい、悔しい。

今までもそうでした。

これからも恐らく、そうでしょう。

 

それは本当のことでしょうか。

パッと見、そう見えるその状態は、本当にそうだと言えるのでしょうか。

 

人はある感情に名前をつけて、それをそう呼んでいます。

しかし実際は、そう簡単に一括りにできるようなものではありません。

なんとも言えない状態を、ただ一言でパッと言い表してしまうそれは、正確に正しいことだとは言えません。

 

それは、なんとなく、あやふやな、だいたい「それ」というくらいです。

それは「真実」「本当のこと」とは言えません。

 

 

目の前に見えるテーブル。

四角くて、硬くて、しっかりして見えるそれは、原子レベルで見ると隙間だらけで、とてもテーブルと呼べるような代物ではありません。

原子と原子の隙間は実寸にすると、星と星くらい離れています。

 

すなわち、硬くて頑丈でしっかりして見えるテーブルなるものの実体は、ほとんど「隙間」でしかありません。

やはり何とも言えない代物です。

 

 

1+1=2、ニニンガシ、ニサンガロク。

物理の法則や計算式は必ず正しく、本当であるはず。

しかし物理の法則は次々と覆されています。

 

ニュートン力学は相対性理論に取って代わられ、さらに量子力学が疑問を投げかけます。

今では観察者の意図が観察結果に影響するとまで言われています。

あやふやです、曖昧です。

 

そして計算は、単なる思考です。

それは思考の中にだけ存在する、地球上での取り決め、地球上で皆がそう信じていること、です。

それは、思考がなければ存在し得ない存在です。

 

 

世の中の全ては、不安定で、あやふやで、曖昧です。

何ひとつリアルで、正確で、本当のことはありません。

感情も、知覚も、思考も、何ひとつリアルではありません、確かではありません。

 

我々は「もやもや」の中で生きています。

もやもやで曖昧な、捉えようのないものを本当のことだと「信じて」あるいは「決めて」、生きています。

 

何ひとつ当てにならないこの世界に、真実はあるのでしょうか。

この世界において真実とは何でしょうか。

 

 

ただ一つ言える本当らしきこと。

それは、それらアレやコレやを「認識している」ということです。

その「認識」だけが、本当のことと言えるのではないでしょうか。

 

認識の対象、それは「感情」であったり「モノ」であったり「概念」であったり、いろいろですが、それらを認識する「認識」だけは、いろいろではありません。

認識の対象は、あいまいで不確実で常に変化しますが、認識そのものは、不変です。

 

真実とは、その不変なる「認識」でしかあり得ないのではないでしょうか。

 

 

我々は物事を認識します。

熱い寒い、好き嫌い、楽しい悲しい、難しい簡単、硬い柔らかい…。

 

熱い寒い、好き嫌い、楽しい悲しい、難しい簡単、硬い柔らかい、と、認識されるものはいろいろですが、それらを認識する「認識」自体は、いろいろではないですね。

認識は認識でしかないですね。

 

そんな「認識」とは何でしょうか。

 

「認識」は認識することができません。

「認識」は認識する対象ではなく、主体です。

目が自分の目を見れないのと一緒です。

(目は、鏡や映像によって自分自身を見ることはできますが、その時見ているのは「鏡」や「映像」であって、リアルな現物ではありませんね)

 

では、認識できない認識をどうやって認識するのか。(笑)

もはやトンチのようですが、それは、目が自分自身を見ることはできないけど、目が「対象を認識している(見ている)」というその事実によって、目の存在が自ずと理解されるのと一緒ですね。

 

認識は、いろいろなものを認識することによって、そこに「ある」ことがわかります。

ちょっとそこに思いを馳せてみてください。

対象のアレやコレやに思いを馳せるのではなく、それらを認識している認識のほうに、思いを馳せてみてください。

ありますか? それが。

 

それって何でしょうか。

「何でもない」ですね。

何でもないから、いろんな何でもが、その中で認識されることができます。

何でもないから、あらゆる対象が、あらゆる形態を取って、そこに認識されることができます。

 

何でもないからこそ、世の中何でもあるのです。

何でもあり得るのです。

つまりその無は、全てを包含しているのです。

全ての可能性を、そこに包含しているのです。

 

もやもやで、曖昧で、捉えどころのないこの世界は、「無」というベースの上に、展開しているのです。

世界は、「無」が取る形態の「現れ」の部分であり、現れの源となっているのが、「無」です。

 

 

さて、本当のことをしゃべってみる。

本当のこととは一体、何であったでしょうか。

 

「現象」に本当のことは、何ひとつありませんでした。

感情も、知覚も、思考も、何ひとつ確かなもの、確実なもの、リアルなものはありませんでした。

それらはみな、不確かなもの、あやふやなもの、曖昧なものでした。

 

真のリアルとは何か。

それは、感情、知覚、思考ではなく、それらの「認識」です。

ただ認識だけがあります。

全ては、認識の上に展開しています。

認識がなければ、何もありません。

 

「いやぁ、私の認識がなくても、世界は相変わらず存在するよ」

それは単なる想像ですね。

それすら認識の上に現れる、ひとつの「現れ」です。

 

認識が全てです。

全ては認識に、包含されます。

 

つまり、「自分=認識」です。

認識の「対象」が自分ではなく、「認識」それ自体が自分です。

認識の対象物たる、思考、身体、記憶、名前、性格、性別、志向。

それらが自分ではなく、それらを認識している「認識」が、自分です。

 

その認識の上に、それら対象物全てが展開しています。

つまり、「自分=世界」です。

 

本当のことをしゃべると、そういうことになります。

それが本当のことではないですか。

 

あなたもぜひ、自分の言葉で、本当のことをしゃべってみてください。

とことん、とことん、本当のことを。

 

誰にも言う必要はありません。

恥も外聞も必要ありません。

ただ自分のために、自分に向けて、本当のことをしゃべってみてください。

そして真実とは何かを、あなたがあなた自身に、教えてあげてください。

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