自分に集中するとは、夕飯のテレビを切って、納豆をまぜる手に集中するというようなことです。
自分に集中するとは、季節の変わり目を敏感に感じ取り、その空気を胸いっぱいに吸い込むというようなことです。
非常に些細なこと、しょーもないことである場合は、よくあります。
外目線で見れば。
内目線と外目線は全然違います。
外から見たら「何をしょーもないことやっとるんだ」ということも、内目線で見たら充実した時間だったりします。
全然ちがうのです。
180°真逆です。
ですから60%内目線、40%外目線という中途半端はできません。
どっちかです、必ず。
オン・オフみたいに、そうであるかそうでないかのどっちかです。
この場合大事なのは、完全にそっちを選択するという意志です。
中途半端はないのです。
完全にそっちを選ぶのです。意志を持って。
つまり、意志の力でそれが可能だということです。
…
意志の力は、「それを選ぶ」という選択の力です。
選択の力が人間に与えられているということに、深い意義を感じます。
普通なら、わざわざ選択によらなくても、全員に幸せを与えてくれればいいのにって思いますね。
そうすれば楽なのにって。
しかし、選択によらず全員に最初から幸せを与えることは、意味がないのです。
そんなこと、なんにも意味がないのです。
何の意味もないですよね、そんなことしても。
選択があり、その選択によって幸せを選ぶことにこそ、意味があるのです。
あっちも選ぶことができる、こっちも選ぶことができる。
そのような状況の中で、選択によりそっちを選択する。
ここが意義です。
こここそが、人の生きる意義です。
初めから全員に平等に与えられた幸せなんて、意味はない。
それはすでに、幸せでも何でもない。
幸せとは幸せではないという状況が存在することによって、初めて存在しうるもの。
初めから平等に与えられた幸せは、それは幸せでも何でもなく、ただの「何でもない」。
…
我々は選択すべき生き物です。
選択するよう運命づけられた生き物です。
「選択しない」というのも、一つの選択です。
我々は必ず何かを選択している。
そのように義務付けられている。
選択を放棄するとき、「選択しない」という選択をしている。
選択からは逃れられない。
「おれは何もやってない、不幸が向こうからやってきたんだ」
そんな言い訳は通用しない。
「何もしない」という選択によって、その状況を自ら選んでいる。
選択からは逃れられない。
ならば、積極的に選択していくしかない。
自ら選び取っていくしかない。
逃げても逃げられないなら、もう立ち向かうしかない。
あとはどこでその決断をするかだけ。
逃げてもにげられない。
あなたはいつ、その選択をするか?
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