今、現に目の前にある状況のことを「完璧」といいます。
もし完璧ではないと思われるのであればそれは、完璧ではないという「解釈」がそこにあるということです。
100人いれば100通りの解釈があります。
同じ状況をみても、あなたにはあなたの解釈があり、他の人には他の人の解釈があります。
いろいろな解釈がありますが、解釈しない元々の状況は、「完璧」です。
何であったとしても、完璧です。
どう転んでも完璧です。
降っていようが晴れていようが、つまづいていようがスムーズであろうが、何であっても完璧です。
解釈しなければ、全てパーフェクトです。
これは、「完璧だと解釈しよう」ということではありません。
解釈によって目の前のことを完璧と捉えよう、という話ではありません。
解釈しなかったら、元々は完璧である、ということです。
解釈による完璧と、元々の完璧は違います。
解釈はあくまで解釈であり、元々は元々です。
…
しかしながら、解釈しないで物事を把握することなどできるのだろうか。
そういう疑問も浮かびます。
人間は解釈によって物事を把握しますから、解釈しないならそもそも把握すらできないのではないか、そう思います。
そしてそれは、その通りですね。
解釈しないとは、把握できない、理解できないということです。
解釈しないときはつまり、「何もない」ということになります。
その「何もない」!
その何もないを見ると何が見えますか?
その何もないって何ですか?
その「何もない」を解釈するのではなく、ただ単にそのまんま、見たまんま見ると、それは何ですか?
解釈しないわけですから、どんな言葉も出てこないわけですが、敢えて言葉にすると「完璧」ではないですか?
何もないって完璧ではないですか?
完璧でしかありえなくないですか? どんな傷もないのですから。
この安堵感。
何でもいいし、それで完璧というこの安堵感。 どうですか?
何も否定しなくていいし、否定したとしてもそれでいいという、何でもOK感。
何でもOKてすごくないですか?
ぜんぜんすごくないし、取るに足らない人であっても、それでOKです。
もちろんすごくても、取るに足る人であってもOKです。
何かをやらかしてしまってもOKだし、やらかさなくてもOKです。
それが、すでに、そのようにある、というパーフェクト感。
それが、すでに、そのようにあるわけです。 どうしようもなく。
もちろんそれに対してどうこう解釈してもいいですし、しなくてもOKです。
どういう解釈もOKだし、解釈しなくてもOKです。
どう転んでもOKです。
私たちは普段、解釈をし、その解釈にうんうん唸ったり翻弄されたりしているわけですが、それすらも実はOKだったわけです。
何をしてもいいし、何をしなくてもいい。
何を考えてもいいし、何を考えなくてもいい。
それらは全部、同様にOKです。
「同様に」です。
どっちも同じなのです、結局は。
どっちも同じ、何でも同じなら、何を選びますか?
心のままに選択してOKということです。
何を選択しても、結局「同様に」完璧なのですから。
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