「いのち」ってものがありますね。
我々は生きていますね。
それは「いのちがある」ということですね。
いのち、生命。
それは目には見えないものですね。
「これがいのちです」と差し出すことはできないものです。
でも「ある」と言えます。
生きている人と死んでいる人の見分けはつきます。
命がある、生きている、ということは、誰にでもわかります。
見えないけれども、あるもの。
見えないけれども、わかるもの。
そう、見えなくてもわかるのです。
目に見えないものは信じられない、証拠がないと信じない、ということがあるかもしれませんが、目に見えなくても、わかるものがあるのです、しかも最も肝心なものが。
いのちという最も肝心なものが、目で見えず、手で触れられないけど、誰もがハッキリとわかるものです。
つまり、物質的証拠じゃない、ということです。
事の核心は、物質的証拠じゃない、ということです。
いのちは全員にありますね。
その全員にある最も根本的なものが、最も誰もが理解していないという不思議。
しかし、誰もが確実に知っているという不思議。
俎上に載せて調べようにも、物的対象がない。
しかし、俎上に載せるまでもなく、誰もが知っている。
最初からあるのです、事の核心は、最初からあるのです。
どこかに探しに行かなくでも、最初からあります。
物的証拠を求める性質が発動して、何か?どこか?と探し回りますが、それは最初からあります。
全員に最初からあります。
いのちでない人などいません。
それは最初から全員にあります。
いのちって何のことか?という概念ではありません。
いのちそのものです。
血が巡り、思考し、歩き、走り、喜び、悲しみ、舞い上がり、落ち込む、その躍動です。
人はすでにいのちであり、いのちはすでに躍動しています。
靴を履き、街に出、深呼吸をし、思いを巡らせ、電車に乗り、人とすれ違い、ご飯を食べ、眠りにつく。
いのちの躍動。
今日も思い悩んでいますか?
今日も思索にふけっていますか?
今日もいつもと同じ日常でしたか?
何か新しい出来事がありましたか?
「生きている」ということはすでに、いのちの躍動です。
いのちはすでに躍動しています。
何をするまでもなく、いえ何の手出しすら出来ずに、命はすでに、生きています。
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