たった1つの「やるべきこと」

「何かをしなきゃいけない」

あるいは、

「何かをしてはいけない」

 

これらは大変、疲れることです。

これらが真実であることがありえますでしょうか?

 

それはありえません。

それらが真実でないことを、我々は直感で知っています。

真実は、「すべてOK」であるはずです。

これも我々は、直感で知っています。

ゆるすことによって世界と同調しよう

 

しかし我々は、いとも簡単に「何かをしなきゃいけない」や「何かをしてはいけない」に囚われてしまいます。

なぜそうも易々と、いつもの固定観念に捕まってしまうのでしょうか。

 

 

普通に考えると、世の中全体の流れがそうだから、ということもありますし、長年その生き方で生きてきたから、ということもあります。

あるいは、物理的存在の条件付けとして、食べ物は欲しいし睡眠も欲しい、承認欲求も欲しいという、生物学的な理由も、そこにはあるでしょう。

いろんな理由があり、我々はいとも簡単に、本来性から引き離されます。

 

でも、もちろんそれもOKです。

 

その本来性から引き離されていることに自覚があれば、それでOKです。

つまりまずいのは「無自覚」ですね。

無自覚こそが、紛争を引き起こし、軋轢を生み、あらゆる不幸を生み出します。

 

やらなければいけないことがあるとしたら、それは「自覚的であること」です。

もちろんそうでなくてもOKですが、それは結果的に不幸を生みます。

きっとあなたが求めているのは、それではありませんね。

 

 

自覚的になるとは、今の自分のポジションがわかる、ということです。

悲しんでいるのなら、悲しんでいることがわかる。

喜んでいるのなら、喜んでいることがわかる。

 

特に、苦しみの中にいるときに、自分のポジションを理解することは、救いになります。

苦しみは時に、圧倒的な力で迫ってきます。

その時人は、苦しみに押しつぶされ、身動きも呼吸もできません。

 

しかし、それを自覚してみましょう。

「今、苦しみにとっ捕まって苦しんでいるな」

その様を自覚してみましょう。

 

それだけで呼吸が戻ってきます。

 

なぜならその時あなたは、苦しみの「中」で押しつぶされているのではなく、それを「見る」ポジション、すなわち苦しみの「」にいるからです。

苦しみから抜け出す方法

 

自覚的になるとは、「見る」立場。

すなわち、どこの中にも属さない「ニュートラル」な立場と言えます。

そこは「何」でもない場所。

すなわち「無」です。

喜でも怒でも哀でも楽でもなく、無です。

 

 

いいでしょう、我々はいとも簡単に巻き込まれますよ、いつもの固定観念に、いつもの無自覚に。

しかし我々がやるべきことはいつだって簡単です。

思い出す」だけです。

「あ、巻き込まれてるな」と、「引っ張られてるな」と。

 

思い出すだけで、本来のニュートラルな位置に戻ります。

簡単です。

なぜなら、本来的であるほうが、本来的だからです。

 

巻き込まれている時に、それに対処するために「何かをしなくちゃ」とか「何かをやめなくちゃ」と考えるのは、さらにそれに巻き込まれることを意味します。

巻き込まれているときにやるべきことは、「何もしない」です。

苦痛から → 全てがうまくいく人生への転換

 

それと格闘するのではなく、そこから離れるのです。

それを「見る」位置に移動するのです。

そのことを思い出しましょう。

 

巻き込まれている最中は、うっかり忘れます。

そして、どんどん巻き込まれます。

 

でも、ただ「思い出す」だけ。

「思い出す」ことだけを、思い出しましょう。

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