「何かをしなきゃいけない」
あるいは、
「何かをしてはいけない」
これらは大変、疲れることです。
これらが真実であることがありえますでしょうか?
それはありえません。
それらが真実でないことを、我々は直感で知っています。
真実は、「すべてOK」であるはずです。
これも我々は、直感で知っています。
しかし我々は、いとも簡単に「何かをしなきゃいけない」や「何かをしてはいけない」に囚われてしまいます。
なぜそうも易々と、いつもの固定観念に捕まってしまうのでしょうか。
…
普通に考えると、世の中全体の流れがそうだから、ということもありますし、長年その生き方で生きてきたから、ということもあります。
あるいは、物理的存在の条件付けとして、食べ物は欲しいし睡眠も欲しい、承認欲求も欲しいという、生物学的な理由も、そこにはあるでしょう。
いろんな理由があり、我々はいとも簡単に、本来性から引き離されます。
でも、もちろんそれもOKです。
その本来性から引き離されていることに自覚があれば、それでOKです。
つまりまずいのは「無自覚」ですね。
無自覚こそが、紛争を引き起こし、軋轢を生み、あらゆる不幸を生み出します。
やらなければいけないことがあるとしたら、それは「自覚的であること」です。
もちろんそうでなくてもOKですが、それは結果的に不幸を生みます。
きっとあなたが求めているのは、それではありませんね。
…
自覚的になるとは、今の自分のポジションがわかる、ということです。
悲しんでいるのなら、悲しんでいることがわかる。
喜んでいるのなら、喜んでいることがわかる。
特に、苦しみの中にいるときに、自分のポジションを理解することは、救いになります。
苦しみは時に、圧倒的な力で迫ってきます。
その時人は、苦しみに押しつぶされ、身動きも呼吸もできません。
しかし、それを自覚してみましょう。
「今、苦しみにとっ捕まって苦しんでいるな」
その様を自覚してみましょう。
それだけで呼吸が戻ってきます。
なぜならその時あなたは、苦しみの「中」で押しつぶされているのではなく、それを「見る」ポジション、すなわち苦しみの「外」にいるからです。
自覚的になるとは、「見る」立場。
すなわち、どこの中にも属さない「ニュートラル」な立場と言えます。
そこは「何」でもない場所。
すなわち「無」です。
喜でも怒でも哀でも楽でもなく、無です。
…
いいでしょう、我々はいとも簡単に巻き込まれますよ、いつもの固定観念に、いつもの無自覚に。
しかし我々がやるべきことはいつだって簡単です。
「思い出す」だけです。
「あ、巻き込まれてるな」と、「引っ張られてるな」と。
思い出すだけで、本来のニュートラルな位置に戻ります。
簡単です。
なぜなら、本来的であるほうが、本来的だからです。
巻き込まれている時に、それに対処するために「何かをしなくちゃ」とか「何かをやめなくちゃ」と考えるのは、さらにそれに巻き込まれることを意味します。
巻き込まれているときにやるべきことは、「何もしない」です。
それと格闘するのではなく、そこから離れるのです。
それを「見る」位置に移動するのです。
そのことを思い出しましょう。
巻き込まれている最中は、うっかり忘れます。
そして、どんどん巻き込まれます。
でも、ただ「思い出す」だけ。
「思い出す」ことだけを、思い出しましょう。
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