妄想でも空想でもなく、本当のことは何なのかと調べてみましょう。
誰かの言っていることを信じるのでもなく、仕入れた知識を活用するのでもなく、いま現にある事実を、ただ単に見てみましょう。
…
部屋の壁が見える、通りのざわめきが聞こえる、パソコンの画面が見える、考え事が浮かんでいる、足の裏がかゆい…。
それらがありますね。
うん、あります、確かに。
で、それだけですね。
以上、終わりです。
事実は、それらが、ただ、ある。
それだけですね。
意味も解釈もなく、そこにあるものが、ただある。
いや、意味や解釈すらもひっくるめて、ただある。
ただ、それが、そこに、ある。
それに対する意味付けや解釈があるなら、それらもひっくるめて、ただ、それが、あるだけ。
…
その感覚を、敢えて言葉にするならば、「無」ではないでしょうか。
なんでもない。「何」でもない。
なんにもない、という感覚です。
いや、目の前にコップがあるじゃない、頭の中に思考があるじゃない、と思われるかもしれませんが、それらの一個一個に着目するのではなく、それらが、「ただある」という状況のほうに着目すると、「なにもない」となりませんか?
ただ無意味にある。
ただ無意味がある。
ただ無がある。
このなんでもなさ。
我々は普段、意味や解釈の中で生きていますが、それすらも包含する、なんでもなさ。
我々は普段、意味や解釈のレベルに留まっていますが、その先に行くと、無です。
それは、いま現にある事実をただ見るだけでわかります。
あなたも実際に自分で確認してみてください。
誰かの言っていることを信じるのではなく、実際に自分で調べてみてください。
…
で、その「無」なるもの。
それは一体なんでしょうか。
なんでもないわけですから、もう「何」とも言えませんね。
何かを言った時点で、それはもう無ではなく、「何か」になります。
コップや思考のような「何か」になってしまいます。
コップや思考の奥にあるそれは、表現はできません。
でも、「感じ取る」ことはできます。
それを感じ取ったとき、どういう気分でしょうか。
「無」ですよね、文字通り。(笑)
深淵、無、何とも言えない。
何でもないからこそ、何かが展開する。
何でもないからこそ、嬉しいや悲しいが生まれ得る。
…
我々は普段、「何か」の中で暮らしています。
自分の名前や職業や住む場所や考え方、いろいろな「何か」の中で、暮らしています。
そして、何かを何かにしたりしなかったり、しようとしたりできなかったりしながら、暮らしています。
しかし「何か」は、意味もなくそこにあります。
全ての「何か」は無意味です。
名前も職業も、住む場所も考え方も、友達もパートナーも家族も。
意図も計画も衝動も夢も希望も。
それらは全て「何か」の一部ですから、無意味です。
文字通り「全て」は、ただ単に、そこにあります。
我々はすでに、無意味の中に生きています。
しかし、その無意味ということに安心ができないので、何かしらの意味付けをして、なんとか納得しているような状況です。
無意味は落ち着かないので、落ち着かせるために、意味を与えています。
しかし、その「意味付け」さえも、無意味です。
その意味付けさえも、無意味に、勝手に起こっていることです。
我々は無意味からは逃れられないのです。
しかし、そもそも無意味から逃れる必要があるのでしょうか?
自分の人生を何か意味あるものにしたい、充実したものにしたい、満足できるものにしたい。
そんな願望すら無意味に、勝手に起こっています。
充実も満足も、意味もなくそこにあります。
無意味です。
意味にこだわる必要はあるのでしょうか。
気持ちの良いこと、楽しいこと、嬉しいことがいい、それだけにしたいという、動物的な欲求はもちろんあります。
もちろん、それらにも意味はありません。
無意味に、勝手に起こることは、もう放っておくしかないのではないでしょうか。
誰のせいでもないし、何の理由もない。
「ただ起こること」に責任を取ることはできませんし、コントロールすることもできません。
文字通り「無」です。
つまり、何もできることはない、放っておくしかない、ということです。
放っておいても、勝手に意味付けはおこるし、勝手に解釈も起こります。
全てに対して「それでいい」と思えたなら、苦しみはありません。
それでいいのではないでしょうか。
なぜなら、事実を見ると「それでいい」に行き着くからです。
事実を見ると「それでいい」でしかありえないことが、わかるからです。
あなたもぜひ、事実を「自分の目」で、確かめてみてください。
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