「それ」はどこからやって来るのかというと、自分の内側です。
ケーキの美味しさや、映画の面白さは外からやってきますが、「それ」は自分の内側からやってきます。
瞑想によって今あるものをただ受け入れる。
それはケーキや映画に比べたら、なんにも美味しくないし、なんにも面白くありません。
「一体何の意味があるのか」と疑問に思うのが、普通の感覚です。
しかしながら、その感覚のままやっていても、「それ」がやって来ることはありません。
「何の意味があるの?」「何が面白いの?」に心が占められているとき、そこに「それ」が入り込む余地は、ありません。
「それ」は外からもたらされるものではないのです。
今聞いている音、今見ている景色、今触れている感触。
今感じているフィーリング自体が、「それ」をもたらしてくれるわけではありません。
ケーキを食べたり映画を観たりすることとは、次元が違うことをやっています。
その同じ感覚のまま、「外から何かがやってくる」と期待していても、それは全くの期待外れになってしまいます。
「それ」は内からやってきます。
我々がやることは、やって来る「それ」に対してスペースを空けることです。
外に取りに行くのではなく、やってくる場所を用意するのです。
これらが全然別のこと、というのはご理解いただけるかと思います。
要するに瞑想とは、「受け入れ態勢を作ること」です。
瞑想とは受信の練習、受信の感度を上げること、と言いましたが、何を感じるかよりも、「受信する態勢づくり」の方が主旨です。
受け取る態勢ができた場所に、それはやってきます。
やってこないかもしれませんね。
場所を用意しても、来る来ないはこっちで決めることではないので、それは来ないかもしれません。
でもそれは来るのです。必ず。
なぜなら、受け取り態勢そのものが「それ」だからです。
受け取り態勢ができた=その感覚、なので、その感覚がないならそれは、受け取り態勢ができていない、ということになります。
全てを受け入れる、とか、全てを許す、なんて、まるで「神かっ!」とツッコミたくなりますが、まさにその時、神の感覚を味わうのでしょう。
ある意味神になるのでしょう、その時。
何かを期待する、何かを欲しがる。
あまりにも人間的な心意気です。
瞑想によって何かを得たいと思う。
あまりにも人間的な心意気です。
人間なのですから、当たり前です。
神になるには、人間をやめなければいけません。その瞬間。
その練習が、瞑想です。
神の領域はもはや、損得とか、結果がどうとか、成功不成功とか意味無意味とか関係ありません。当たり前だけど。
そういう人間的なことを考えていて神の領域に行けるわけがありません。
神とは無条件の愛です。
意味無意味、成功不成功を超えた場所です。
無条件に全てを受け入れる時、それは瞑想によってあらゆる感覚を無条件に引き受けている状態のときですが、そんなことで神の領域に行けるのです。
これを恩恵と言わずして、何と言うのでしょうか。
瞑想ってこないだもテレビでやってたし、いろんなところでめちゃめちゃ勧められますけど、本当に想像以上に意味があると思っています。
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