例えば事故で大ケガをして病院のベッドから動けなかった人が、完治して普通の生活に戻ったなら、それだけでありがたいと思うことでしょう。
逆に今まで豪遊してた人が普通の生活に戻ったなら、それだけでみじめな気持ちになることでしょう。
同じ「普通の生活」でもこのように感じ方が違います。
これがつまり、相対の世界ですね。我々が普段生きている世界です。
関係性は常に変化し、良かったと思ったものは悪くなり、悪かったと思ったものは良くなります。
そんな中で人はいつも「良い」であり続けようとしますが、それは不可能です。
「良い」と思って飛びついたそれは、ふと見ると「悪い」に変化しています。
この人だ!と思って結婚した相手は10年後、なんでこんな人と結婚したんだろうに変わります。
絶対安泰と思って入った会社は、10年後潰れています。
それはコントロール不可能です。
天気をコントロールするのが不可能なように、変化を止めることはできません。
このような不確実な世界だからこそ、確実さを求める心理が働きます。
それに応えてくれるものがあるとするなら、それは「絶対」ですね。
相対ではなく、絶対です。
絶対とは「変わらない」ということです。
「不変」ということです。
そんなことってあるのか?
変わり続けるのがこの世界だというのに?
変わるのは目に見えるものです。
物理現象や、外の世界の出来事です。
常に動いているのは「外側」です。
回転するコマを想像するとわかりやすいですが、外側に行けば行くほど激しく動いています。
そして内にいくほど動きは小さくなり、中心では静止します。
その静止するポイント。動いてない場所。
そこが「絶対」です。
じゃあ我々の世界において、その中心の静止するポイントとは何か?
外の世界は動いています。
宇宙は大きく動いています。
宇宙に比べると地球の動きは小さくなります。
地球に比べると我が町の動きは小さくなります。
わが町に比べると我が家の動きは小さくなります。
我が家に比べると自分の動きは小さくなります。
自分の動きに比べると「自分の動きが発生する場所」は、すでに動いていません。
つまりそこです。
じゃあその「自分の動きが発生する場所」とは何なのか。
そこから全てが発生するその源とは何なのか。
ジャンル分けをするならば、世界は「外」と「内」です。
外の世界のものは、あらゆるものが一括りにできます。
お金も家も天気もニュースもSNSも学校も会社も肉体も思考も感情も。
それらは全て「外の世界のもの」というジャンルに入ります。
目に見えるもの、手で触れられるもの、感じられるもの。
「対象物」と言えるものは全て、外の世界のものです。
そしてそれとは別ジャンルなのが、それらが発生する源、つまり「内」です。
外のあれやこれや全部と、内。
これこそが別ジャンルです。
外の世界は無限のバリエーションがあるように見えますが、ジャンル分けするなら全て同一ジャンルです。
我々は外の世界のものを駆使して外の世界で生きていますが、どこで何をしていようと結局一緒なのです。
それらは全て同一ジャンルですから。
本当の意味で違うと言えるのは、「内」だけです。
つまり、外から内への移行が、この話のポイントです。
内に目を向けてみましょう。
外ではなく、内です。
ニュースやトピックや今やっていることや今気になっていることではなく、内です。
そこには何があるのかというと、何もありませんね。
内を見てみても、何もありませんね。
いくら目を凝らしても、何も見えませんね。
その時あなたは、何を感じるでしょうか。
底知れぬ空虚感でしょうか。
得体の知れぬ恐ろしさでしょうか。
それとも何を感じていいのかすらわからないでしょうか。
その何もなさをずーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと見てみましょう。
それが何かわかるまで、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと見てみましょう。
わかることがなくても、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと見続けてみましょう。
それがすなわち瞑想であり、移行のステップです。
コメント