そこにいる限り、解決をすることはできない。
そこはそれらが湧き出す場所であり、そこにいる限りそれらから逃れることは、できない。
根本的かつ唯一の解決は、そこを去ること。
悩みや問題をたくさん抱えているのは、そこがそういう場所だから。
そこにいる限り、それらにまみれるのは、致し方のないこと。
去る、という発想。
去ることができる、という思いつき。
そんな場所に自分がいるんだという自覚。
まずはそれらを発見する必要がある。
自分の居場所を確認し、そしてそれをどうするか。
未練が捨てきれない、というならそれは、それらを引き受けることを良しとすること。
捨て去るのは難しいというならばそれは、そこに付随するすべてを、甘んじて引き受けるということ。
そしてそれは別に、どちらでもよいこと。
ただ、自分の選択に対する責任と覚悟は引き受ける必要がある。
というかそれらは自動的に付与される。
責任と覚悟は自ら求めなくても、自動的に付与され、そこから逃れることはできない。
逃れられないそれらから逃れようとする試みがすなわち、苦しみともいえる。
非常にオートマティックに、自働的に運行しています、宇宙は。
好きも嫌いもないし、あやふやさは微塵もない。
こうであるとスパッと断定し、1ミリのズレも誤りもない。
そうだからそう。
あなたはそうだからそうだし、全員がそうだからそうです。
1ミリのズレも誤りもない断定は、全員に等しく適用されている。
あなたは自分自身の「そう」が見えていますか?
無知であるというより、それは単純な事実です。
見えないというより、見えている事実を曲解しているだけ。
本来、事実にそんな意味はない。
勝手に意味を付着させているだけ。
そういう意味では子どもの方がストレートに物事を見ている。
我々は子どもを教える立場ではなく、子どもに教わる立場だ。
まずはその事実が見えなければ始まらない。
自分は今、どこにいるのか。
そして、どこへでも行ける、ということ。
無理とか難しいとかはない。
無理とか難しいという選択はある。
無理とか難しいを選択することはできる。
なにしろどこへでも行けるので。
ただしそれは自分の選択であり、だれの責任でもない。
どこへでも行ける。
無理にも行けるし、難しいにも行ける。
簡単にも行けるし、できるにも行ける。
現実の話ではない。
現実にどこかへ行くとか、何かをする、という話ではない。
「選択」の話である。
「何を選ぶか」という話である。
「自分には選択なんてできない」という選択も、もちろんできる。
選択する以外の選択肢はない。
全員それを、自ら選択している。
自覚、無自覚、関係なしに。
どこへでもいけます。
なぜなら選択は自由だから。
自由だからこそ、不自由も選択できます。
不自由を選ばされていると思っているかもしれないが、それは文字通り、不自由を選ばされていると思っているだけ。
自由だと思っている人もいれば、不自由だと思っている人もいる。
文字通りそれは、その人の選択。
「選択しているんだ」ということを、思い出してください。
あなたはあなたの選択をしていいのですし、実際しています。
そして、その選択の結果が、いまここにいます。
選択とは、行動を伴わなくていいのです。結果を伴わなくていいのです。
ただ「選ぶ」だけです。単純に。
赤と黄色と白、どれがいいですか?
右と左とまっすぐ、どれがいいですか?
楽しい、悲しい、嬉しい、どれがいいですか?
お金持ちと貧乏と普通、どれがいいですか?
実際にお金持ちになる必要はありません。
「ああ、これがいいなぁ」と選ぶだけです。
実際にモテる必要はありません。
「ああ、モテるがいいなぁ」と選ぶだけです。
「どうせお金持ちにはなれないし」「どうせ自分はモテないし」とできないを選択するのも、もちろん自由です。
ただしそれは、自分がそう選択したのだと忘れないでください。
何をどう選択してもいいという万人に平等なフィールドのなかで、あえて自分はその選択をしたのだと、知っておいてください。
他人や周りに、その責任を押し付けることはできません。
なぜなら、その選択の結果を引き受けるのは、自分自身以外にいないから。
その選択をした瞬間に、「そうである」は1ミリのズレもなく適用されます。
間髪をいれずに「その選択をしている自分」が出来上がります。
そして、その選択をしている自分を生きることになります、次の選択に変えるまでは。
自分の選択を他人の選択にすることはできないし、他人の選択を自分の選択にすることもできません。
選択の責任と覚悟は、自動的に当人に付与され、そこから逃れることはできません。
逃れられないそれらから逃れようとする試みがすなわち、苦しみです。
どうぞ苦しまない選択を、初めからしてください。
コメント