「ある」とは何でしょうか。
例えばコップ。
目の前のそのコップは、ちゃんと手で触れるし、爪でたたけばカツカツ音がします。
ちゃんとそこに実在としてある、という感じがします。
では、頭の中の思考はどうでしょうか。
手で触ることができないそれは、あると言えるのでしょうか。
いや、それもちゃんとあるという「感覚」はありますね。
手で触れ、目で見えないけど、ちゃんと「ある」という感覚はあります。
そしてその「ある」という感覚は、コップの場合も思考の場合も、結局のところ違いが無いのではないでしょうか。
もちろん、それを捉える時の感覚的な違いはあります。
触覚で把握する「ある」と、頭の中のだけで把握する「ある」、その違いはあります。
でもその違いは赤と緑の違いのようなものです。
両者は「色」という意味においては同じです。
コップも思考も、「ある」と把握できるもの、という意味においては同じです。
そう考えると、「あると認識できる」ということが、イコール「ある」、と言えます。
把握できるものは全て「ある」です。
「把握できるもの」は、色に例えると赤だったり青だったり様々ですが、「色」という意味においては一緒です。
コップも思考も、「把握できるもの」という意味においては同列です。
世界は「把握できるもの」で成り立っています。
では、それらを把握しているものはなんでしょうか。
それは「自分」ですね。
自分がそれらを把握している。
普通はそう考えます。
しかし、よく観察してみると、自分なるものはどこにも見当たりません。
実際の経験を良く観察してみると、自分がそれらを把握しているのではなく、ただ「把握という事象があるだけ」ではないでしょうか。
コップを掴んでいるその「感覚」、視界に現れる色や形という「感覚」。
それらの「感覚」だけがあり、自分なるものはどこにも発見できないのではないでしょうか。
自分と言える何物も、そこには発見できないのではないでしょうか。
手や足がそこにある?
それらもコップの場合となんら変わりなく、手や足という視覚や感覚としてしか把握できないのではないでしょうか。
自分はどこにも発見できません。
あるのは感覚そのものだけ。
それが、実際の体験ではないでしょうか。
視覚、触覚、嗅覚などの五感、そして五感では把握できないけど頭の中で把握できる思考、感情、記憶。
それらの知覚がただ、浮かんでは消えている。
それが生の実態、現実ありのままに見えている生ではないですか?
記憶や思考に頼るのではなく、いま現に体験していることをダイレクトに表現すると、そういうことになるのではないでしょうか。
自分はいない。
ただ知覚・感覚だけが浮かんでは消えている。
もちろん言葉には限界がありますが、生をなるべく正確に表現するするならば、そういうことになるのではないでしょうか。
…
さらに仔細に見てみましょう。
「自分の意思」とは何でしょう。
それは「そうしたい」という考えですね。
それもやはり、どこからともなく浮かんできて、感覚で把握できるものです。
コップや手足と同じように、感覚によって把握できる「もの」です。
その「意思」によって、あれこれ動いたり考えたりしますが、その動きや考えも、感覚というフィールド内で起こる出来事で、結局全ては感覚に帰します。
例えば鬼ごっこで鬼から逃げるという状況。
まず「逃げよう」そして「走ろう」という考えが浮かびます。
それから視界にはガタガタと振動しながら後ろに流れていく景色が発生し、手足には筋肉の緊張のような感覚が発生し、足の裏には地面とバタバタと接触するようなショックが感じられます。
頬には風を感じ、心臓には動悸を感じ、心にはドキドキするような感覚が発生します。
つぶさに観察するなら、そんな感じではないですか?
これは就職のために面接に行くことも、誰かを好きになってアプローチすることも、休暇に旅行に出かけることも、その仕組みはすべて同じですね。
全ては感覚。
来ては去る感覚。
意思も思考も感覚だし、動作中の身体感覚も感覚だし、出来事も感覚で成り立っていますし、そこから受ける印象も感覚です。
ありとあらゆる感覚が来ては去り、去っては来ます。
今まで自分と思っていたような自分はいません。
ただ、感覚だけが、止めどなく流れ続けている。
自分というものがあるとしたら、その感覚が起こるフィールドが、それです。
その中であらゆる感覚がやって来ては去る場。
その「場」こそが自分と呼べるものではないでしょうか。
世界は自分というフィールドにおいて展開している。
それが事実をありのままに見たときの見え方ではないでしょうか。
気分がすぐれない時、それはあなたの気分がすぐれないのではなく、あなたというフィールドにおいて気分がすぐれないという知覚が起こっている、ということです。
気分がいい時、それはあなたの気分がいいのではなく、あなたというフィールドにおいて気分がいいという知覚が起こっている、ということです。
自分という場は、何も変わりません、変わりようがありません。
生まれてこのかた、何も変わっていません。
あなたは生まれてからずっとそこにいて、目の前を通り過ぎる感覚たちを、ただ通り過ぎるままにしていた。
そうではないですか?
…
見たままの事実は、今までそうであると思い込んできたものと、あまりにも違います。
実際にそのように見たものではないことを、まわりから聞いて、教えられて、信じ込んでいたのです。
このことを、太陽が東から昇って西に沈むという例で確認してみましょう。
この現象は、実際には動いているのは太陽ではなく、地球であると知られています。
しかし、あなたの実際の経験、あなたが実際に今いるポジションから見える見え方は、そのまんま、太陽は東から昇って西に沈む、であるはずです。
聞いた知識、見せられた画像等によって、動いているのは太陽ではなく、地球だと「信じている」のです。
同じく、あなたが歩いたり走ったりするとき、動いているのはあなたの身体だと信じています。
あなたの身体が道路の上を、右から左に、移動している。
そう思っています。
しかし、あなたが実際に知覚している現実は、あなたは止まっていて、景色が視界の中で動いているはずです。
と同時に、足の裏に感じる感覚、頬に感じる感覚、筋肉の感覚。
それらの総体が、あなたにとっての実際の「歩く」という経験であるはずです。
あなたは全く動いていません。
全く動かないそのフィールド上で、歩くにまつわる感覚がわいわいやっている。
それが「実際の」体験であるはずです。
あまりにもかけ離れています、いままでそうであると思ってきたことと実際の体験は。
あなたもぜひ、自分の体験をチェックしてみてください。
(次回に続く)
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