目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるもの。
全部に意味はありません。
意味は全部、取って付けたものです。
もともとは、意味なんて何もありません。
ただの「それ」。
全ては、ただのそれ。
そこの位置に、今戻ろう。
全てがフラットに無意味化するその位置へ。
そして、そこにしばらく佇んでいよう。
無意味なその場所に。
何でもないそれら。
何でもないそれらは、全て同列。
優も劣もないから。
見えるもの聞こえるもの触れるもの、全て同列。何の差もない。
そのことの意味?
もちろん考えなくていい。
考えなくていいって、超ラク。
考えるからしんどい。
考えて出した結論も、考えずにやったことも、全て同列。
どっちも一緒、全部一緒なんだから、わざわざしんどいことをやらなくてもいい。
ラクなほうを選べばよい。
ラクなほうも、ラクでないほうも、同列なんだから。
さ、何します今、あらためて。
何をしても一緒ですよ。何します?
やっても一緒、やらなくても一緒。どれも一緒。
「わざわざ」やらなくてもいいよね。
わざわざ、やらなくてもいい。
やりたかったら、やればいい。
さ、何もしないをやろう。
何もしないを楽しめるのは、かなりのツウ。
その妙味を味わうのは、なかなかに奥深い。
普通はみんな、砂糖をまぶしたお菓子にむらがる。
楽しいこと、気持ちいこと、刺激のあること。
それらにみんな、むらがる。追いかける。
いっこが終わったら次へ。
次から次へ。
さらなる刺激を求めて、またむらがる。
果てなく続く、追いかけ。
それらを横目に真のグルメは、何もしないの妙味を楽しむ。
何もしないで、じっとしている。
もちろん実際に何もしないわけではない。
それどころか、誰よりも何かをしている場合も多い。
じっとしているのは、心の中。
心の中心に、じっとしている。
何が起こっても、騒がない。
どっちでもいいことを知っているから。
何でもいいことを知っているから。
そして、それらの妙味を、誰よりも味わい尽くす。
何が来ても、どんな変化球がきても、サラリと舐め、味わい尽くす。
他の人がえり好みをしているのをよそ目に、あらゆる出来事、全ての物事の醍醐味を味わい尽くす。
無意味になった時、それぞれの意味がより際立つ、ハッキリする。
無意味になった時、全てがわかる。
無意味にいるとき、全ての物事の真の意味が、自ずとその姿をさらけ出す。
無意味だからこそ、真の意味が、曇りなく見える。
真のグルメは、何食わぬ顔で人生を真に味わっている。味わい尽くしている。
他の人が「おえっ!」とか「ペッペッ!」とやっているその横で、誰にも見向きをされないその真の妙味を、味わっている。
無意味ですよ、無意味。
無意味にいる時、全ては恩恵です。
意味なんて考えなくていいのです。
自ずからその姿を現します。
あなたは何もしなくていいのです。
ただそのままにしておけばいいのです。
追いかけるのはやめよう。
群がるのはやめよう。
追いかけるんじゃないんです。じっとしていたら向こうからやってくるんです。
無意味にいたら、勝手にその意味を見せてくれるのです。
さあ、無意味にいましょう!
…
意味がわからない?
素晴らしい感想ですね。
正直すぎて素晴らしい感想です。
だって意味なんてわからないんですから。
意味がわかるってのは全部、「わかった気」です。
「わかった気」という刺激を味わっているのです。
そして、次なる「わかった気」を求めてさまよいます。
「わかった」はつまり、何もわかってないということです。
わかったを追いかけるのは、今までと全く同じで、何も変わっていません。
「意味がわからない」
素晴らしいポジションにあなたは今、立っています。
そのままそこにいて。
何も追いかけないで。
「わかった」を追いかけないで。
わかろうとしないで。
しばらくじっとしてて、そこで。
(以下余白)
コメント
ポエム調になると読みにくいです。普通の文章で書いて下さい。
あはは!そうですか。了解しました!