「ぼんやりとした不安」なんて芥川龍之介も言っていますが、現代人は何かしら、この「ぼんやりとした不安」を抱えていると言っていいでしょう。
あなたはどうですか?
「ぼんやりとした不安」
何、とは言えないけれど、何となく不安。
何がどうとハッキリ確定はできないけど、何かしら感じる、不安。
それはそうでしょう。
目に映る外側の現象、出来事には、何一つ確かなことはありません。
全て不確定、未確定。
外側の現象ばかりを見ていたら、それは不安になるのも当たり前です。
その不安を解消したいと、あなたも感じていることでしょう。
外側の不確定、未確定、不安定な要素ばかりを見ていたら、それは誰だって不安になります。
ですから、まず出来ることは、それを見ないことです。
もちろん、物理的に見ないことは不可能です。
この場合の「見ない」とは、気にしない、真に受けない、相手にしない、というようなことです。
じゃあ見るべきものは何か、となりますが、それは「確かなもの」ですね。
何でしょう、この世で確かなものとは。
あなたが確かだと感じるものは何ですか?
神様ですか? 仏様ですか?
神も仏もひとつの「概念」であり、外側にあるものです。
それらは、「確かだ」というレッテルを誰かが付与した、概念です。
あなたが心底確かだと感じているものではないでしょう。
それは、「確からしい」「確かだという概念を信じることにしよう」といった感覚のものです。
あなたの心の内から、本当に確かだという感覚が湧き起こってくるのを、見守ってください。
あなたは確かさが欲しいのですね。
では、あなたの内から確かさの感覚が湧き起こってくるのを、確認してください。
確かさは外にはありませんでした。
内です。
確かさは、あなたの感じる「感覚」です。
外側の物や人に付随しているものではありません。
確かさはあなたの感じる「感覚」です。
「何に対して確かさを感じるか」の「何」は不要です。
確かさを感じるために、対象は必要ありません。
Aに対して確かさを感じる、Bに対して確かさを感じる、といった「A」や「B」は必要ありません。
ただ確かさを感じるだけです。
「何か」に依存した確かさは、不可能です。
「何か」は、常に概念です。
「何か」である以上、それは概念であり、対象です。
つまりそれは現象であり、外側のものです。
確かさは、何にも依存しないから、確かなのです。
そんなものがあるのか?
確かめてください、自分で。
自分の中にある確かさを、確認してください。
ゆるぎない確かさを、発見してください。
それはあなたの中にしかありません。
外側の現象は、見なくてもいいです。
完全にシャットアウトしてください。
自分の内にある、ゆるぎないもの。
それは勝手には作り出さないでください。
「うん、大丈夫!」なんて、勝手に思い込まないでください。
全く自分にウソをつく必要はなく、ごまかす必要もありません。
ウソをついても、ウソをつかれるのは自分だし、ごまかしても、ごまかされるのは自分です。
全く無意味です。
純粋に素直になってください。あなた自身のために。
何かを見つけようとしないでください。
結論ありきで、結論をデッチあげないでください。
ただ何が浮かび上がるかを見守ってください。
虚心坦懐に、素直に、純粋に。
あなたが完全に透明になったとき、それはすでにそこにあります。
コメント