「苦痛」はそれから逃れたいという強烈なエネルギーを生むという点で、意義があります。
苦痛は「何かがうまくいっていない」というお知らせであり、うまくいくように仕向けるための、一種のアラートです。
しかし我々が、何度も苦痛を繰り返すのは、完全にうまくいく道を見つけていないということです。
何度も苦しむのは、「やはりそのやり方ではうまくいっていない」ことの、何よりの証拠です。
どうすれば完全にうまくいく道を見つけ、永遠に苦痛から逃れられるのでしょうか。
まずはその苦痛が起こる仕組みを解明し、そこに対処を施さなくてはなりません。
苦痛の起こる仕組みとは、どのようなものでしょうか。
…
それは、「望んでいる状況ではない」ということです。
ではその「望み」は、どこから生まれるのでしょうか。
生理的な望み、肉体的な望み、精神的な望み。
いろいろありますが、それらは全て、「より良く生きたい」という望みです。
現時点よりも、より良いもの、優れたもの、快適なもの、素晴らしいものを目指します。
「ここではないどこか」へ行きたいという願いです。
それが叶わない時、苦痛が生まれます。
ですから、「いま、この状況」に安住する時、苦痛はありません。
ここではないどこへも行こうとしない時、苦痛が終わります。
いま、この状況に満足するとき、苦痛は終わります。
…
さて、仕組みは解明できました。
ではどのように、いまこの状況に満足するか。
「ここではないどこかへ」という志向は、勝手に湧き上がってきて、止められそうにありません。
でも、「止めようとする」ことも、一種の「ここではないどこか」へ行こうとすることです。
止めようとすることも、現状を否定し、そうではない状況を目指すということです。
つまり、全てをそのままにする、ということです。
何が起ころうとも、全てをそのままにする、ということです。
それが、いまここに安住するということです。
苦痛が生まれたなら、その苦痛すらそのままにします。
何かをしようとは、しません。
変えようとしたり、改善しようとしたり、すり替えたり、ごまかしたりしません。
全てをあるがまま、そのままにしておきます。
退屈すらもそう、不安すらもそう、やるせなさもそう。
全てをそのままに、あるがままにします。
それらを「どうこうしようと思う」ことが、すなわち苦痛です。
どうこうしようとして、どうにもならないことが、すなわち苦痛です。
どうこうしようとしないことが、苦痛を終わらせる手段です。
あるいは「どうこうしようとする」が出てきたら、それすらも認めることが、解決です。
全て、ありとあらゆる全てを認めることが、解決です。
…
結局人生の中身は同じじゃないか?
そう、同じです。
人生の中身は、今までとそっくりそのまま同じです。
何か素晴らしい人生に移行するわけではありません。
ただし、そこに苦痛はありません。
同じ内容物だとしても、そこに苦痛はありません。
同じ内容物でも「肯定」すれば苦痛はなく、「否定」すれば苦痛が生まれます。
要は「肯定」か「否定」か、それだけです。
人生の成否は「肯定か否定か」にかかっています。
決して内容物ではありません。
人生の内容物は社長でもニートでも何でもいいです。
肯定か否定か。
それが人生を決します。
…
それはとてもむずかしいことでしょうか?
いえ、とても簡単なことです。
とても簡単すぎることです。
ただ眺めていればいいのです。起こることを、全て。
「眺める」ほど簡単なことはありません。
それはほとんど「何もしない」と同義です。
そうです、人生は「何もしない」が勝ちです。
何もしなくても、勝手に、無努力に、人生は「起こって」きます。
何の努力もなしに、勝手に、人生は「起こって」きます。
こんな簡単なことはありません。
これ以上の簡単はありません。
「何もしない」と、人生はうまくいくのです。
何ということでしょうか。
我々は「努力」「根性」「額に汗して働く」が、人生をうまくいかせるコツだと学んできました。
事実は正反対です。
何もしないが勝ちです。
こんな簡単なことはありません。
本当に安心しました。
世界はとてもシンプルに作られています。
これ以上ないくらいシンプルです。
しかしそのシンプルさは、なぜか腑に落ちます。
世界が複雑なのはおかしいと、なぜか我々は知っています。
世界はシンプルであるはずであり、事実その通り、これ以上ないくらいその通りであったことに、我々は安心します。
勝手に流れる川の流れに、ただ乗っていればいいのです。
楽チンです。
ただ起こることを眺めることにしましょう。
ただ流れに乗っていましょう。
ホッと息を吐き出し、「何もしない」の豊かさに身を任せましょう。
全てはうまくいく、全ては素晴らしい。
それが本来の世界でした。
コメント
矛盾している。
苦痛それ自身を受け入れることで苦痛がなくなるという言説は矛盾している。
苦痛が発生している状況を肯定したとして、「苦痛から逃れようとする」苦痛は消えても、原因の苦痛は残るはずだ。
当たっているか外れているかはどうでもいいのですよ。「否定している」、だから苦しいという、ただそれだけです。
そして、否定も肯定も、どちらでも選択できます。
コメントにして文章にしてみると、自分のことを客観的に見れますね。その文章が伝えていることが今のあなた自身です。それを他人の目で眺めてどう感じるか、そしてそこから次に何を選択するか。そういう意味で素晴らしく意義深いコメントだと思います。
おやっとこれはいいぞ、この記事は読みごたえある。