不安な時、怖い時、暇なとき、寂しい時。
何か不安定が襲ってきた時。
「何かであろう」とするよりも「何でもないになろう」とするのはどうでしょう?
普段とは逆の動きをするのです。
普通は何かにすがろうとしたり、何かで埋め合わせようとしますが、それを何もしないのです。
そういう発想は今まであまりなかったと思います。
普通暇なときは、誰かに連絡取ったり、SNSをのぞいたり、テレビをみたり、ショッピングをしたり、「何かをしよう」「外に向かおう」とします。
その逆です。
「何もしない」「内に向かう」です。
そのとき、恐れはより増大し、暇はより大きくなり、寂寥はより深くなるかと思われます。
実際そうなるかもしれません。
しかし、そこを敢えてそうするのです。
内を覗き込んで覗き込んで覗き込みまくるのです。
不安も恐怖も忘れるくらいに。
グイグイグイグイっと。
…
不安定な時はチャンスです。
「それが何か」を調べてみるチャンスです。
そこから逃げるという手段だけでなく、そこに向かってみるという選択もあります。
これは受け取り様によっては、めちゃおもろいチャンスです。
めちゃおもろい冒険です。
不安という、普段なら目をそむけたくなるもの。
いつもなら逃げていたそれ。
それを今回は、「いったいそれは何?」と、踵を返してその中にボンッと埋まり込む。
いったい中はどうなっているのか、徹底的に居座ってみる。
これはゲームです。
意識で行うゲーム。
冒険のダンジョンです。
「不安という名のダンジョンを攻略する」
ワクワクする冒険です。
何もすることがない時、徹底的に何もしない。
するとやってくる、不安、恐れ、寂しさ、やるせなさ。
それの一個一個に、ドン、ドン、ドンと突入してみる。
死にはしません。
物理的にご臨終となるわけではありません。
身体には何の変化もありません。安心です。
だから安心して試してみましょう。
これは今まで思いつかなかった、素晴らしく面白そうなゲームです。
普段はショッピングに出向いたり友達と遊んだりと、外に外に向かっていましたから、こんなゲーム思いつきもしませんでした。
確かに死にはしない、一回やってみたいかも。
そう思いましたね?(笑)
じゃあ実際にやってみましょう。
…
不安や恐怖に突入するとき、実は突入できないことに気がつきます。
捕まえようと思っても、捕まえられないのです。
ドジョウみたいにするすると手の中をすり抜け、全く捕まえられないのです。
あるいは雲をつかむような感覚です。
「さあこい」と構えていても、周辺をうろうろするだけで、決してクロスしないのです。決して交わらないのです。
どうですか、恐怖をその手に捕まえた人はいますか?
まるで一休さんの「将軍に屏風の裏にまわってトラを追い出してくれって言う」みたいな話ですが、実際そうです。
何もないじゃないか。じゃあ一体「ある」のは何?
と、今度は物理的な何かに触ってみたりします。
実際に「触れる」ものです。
テーブル、コップ、ケータイ、自分の身体。
「触っている」という感触がある。
しかしその触っているという「感触」を捕まえることができない。
触っているという感触はある、たしかに、ある。
あるね、うん、ある。
でも、「触っているという感触」を捕まえることができない。
何も捕まえることができない…
何一つ捕まえることができない。
…
恋人と抱き合って深い満足を得たその奥に、一抹の寂寥を感じた方はいらっしゃらないだろうか。
どうしても捕まえられないその一点。
掴んでも掴んでも、掴み切れないその一点。
完全に一体となれたはずなのに、心の底まで愛し合っているはずなのに、どうしても掴み切れないその一点。
そこは本質の一歩手前ですね。
本質は、捕まえられないものです。
掴みたい、満足したい、完全に満たされたい。
そういう思いで人間は、あれに飛びつき、これに飛びつきしていますが、いい加減気づき始めています。
「何もつかめない」と。
喜びも満足も快感も、不安も恐怖も寂寥も、全部全部、なんにも、掴めない。
好きも嫌いも、愛も憎しみも、全部掴めない。
呆然、ですね。
唖然茫然凝然です。
ぽっか~んとします。
その「ぽっか~ん」。
それが真実ですね。
真実は「ぽっか~ん」ですね。
は? へ? え、なんでしょうか? はぁ…。ん?。
何もない真空状態。
それが「行き着く先」ですね。
そこから先は何もない、無。
…
生きることは、無につながっています。
どんな入り口からでも、最終的に行き着く先は、無です。
たどっていけば、そこに行き着きます。
それをたどってみるチャンスが、不安定なその時にあります。
ありきたりのリアクション、外に向かって何かを求めるリアクションをしないで、内に向かってみるのはいかがでしょう、たまには。
思いもかけない新鮮な冒険が、そこには待っています。
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