欲しいものがあるなら、遠慮なく手に入れましょう。
あなたは今、何が欲しいですか。
ブランドのバッグ、カッコイイ車、仕事での成功、素敵な恋人。
いろいろな欲しいものがあるでしょう。
それらを手に入れたり入れなかったりを繰り返した結果、最終的にはそれらとは次元の異なるものが欲しくなります。
それは心の平安です。
もうそれらを欲しいとは思わない、何でもOKという心の境地です。
手に入れる、入れないを繰り返さなくて済む、心の境地です。
人は必ず、そこに行き着きます。
逆にそこに行き着くまで、手に入れる、入れないを繰り返します。
その境地は、どのようにしたら、手に入るのでしょうか。
ブランドのバッグやカッコイイ車は、お金を払えば手に入ります。
仕事での成功や素敵な恋人は、努力や運で、手に入ります。(入らない場合もありますが)
では、心の平安は、どうでしょうか?
お金を払えば手に入る?
努力や運で手に入る?
少し違いますよね。
そういうものとは、次元が違うということは、理解できます。
では、どうすればよいのでしょう?
まずは、それを「欲しい」と思わなくては、はじまりません。
心の平安とか、そういう境地が「欲しい」と思わなくては、手に入りません。
それを欲しいと思わずに、バッグや車のほうに目を奪われていたら、手に入りません。
バッグや車、仕事での成功や人間関係、そういった物理的な現象に、ウンザリしてしまうこと、そこから気が逸れることによってはじめて、心の平安といった事項に目が行きます。
そういう意味で、現象世界で大変な苦しみを味わい、それらにもうウンザリしてしまった人が、心の平安の世界に目を向けやすいということは、あるかもしれません。
いずれにしても、現象世界での出来事を必死で追いかけている間は、手に入りません。
そこから、そうじゃない可能性に目を向け、それを手に入れてみたいと思わないと、はじまりません。
…
さて、物理現象から目が逸れ、それを手に入れてみたいと思ったあとは、どうすればよいのでしょう。
あとはもう、やることはありません。
物理現象から目が逸れたそこが、すでにそうです。
あなたが求めた心の平安は、あなたの本来の状態です。
物理的な獲得を狂乱状態で演じているほうが、むしろ不自然な状態です。
ですからそれをやめ、本来性に目を向けた時、すでに自分がそこにいることに気がつきます。
何もやることはありません。
むしろやることをやめた時、そこにいます。
…
全然そんな気がしない?
それはあなたの想像してたものと違うからではないでしょうか。
もっと何かすごいもの、もっと「あーこれ!」という実感、至福の体験。
そういうものを想像していたのかもしれません。
しかし、あなたがそういうものを求めるとしたら、それは結局は素敵なバッグやカッコイイ車と変わりありません。
バッグや車の代わりに「心の平安」が欲しいということです。
「ん? 求めるからこそ手に入るんじゃないの?」
そうです。
でも、「求める」の質が違います。
真に心の平安を求める時、あなたは「求めない」を求めています。
つまり、何も求めていません。
想像上の心の平安を求める時、あなたは「想像上の素晴らしいもの」を求めています。
それは素晴らしいバッグや素晴らしい車を求めるのと、構造的に同じです。
まるで一休さんのとんちのようですが、ここで難しく考えると、難しくなります。
本来それは、あまりにもシンプルすぎるのです。
シンプルすぎて、難しいのです。(笑)
真理は絶対に難しいものではありません。
人が脳ミソで考えて出す結論とは全く関係ありません。
つまり、考えたり作戦を練ったり対策を講じたりすることとは、無縁です。
真理は、そもそもそうであるもの、です。
我々がやるべきことは、何かをこしらえることではなく、そもそもそうであるものをただ「見る」だけです。
何も作らないし、何も努力しません。
最も楽に、最もそのままの状態の時、そこにあるものです。もともとのものです。
力を抜いて、何かを追いかけるのをやめてみてください。
過去の後悔や未来の心配をいったん脇へ置き、今、ただそのままでいてください。
ほら、何でもないでしょう?
こんな簡単なことなのです。
ブランドのバッグを手に入れるよりも、最新のスポーツカーを手に入れるよりも、もっと簡単です。
仕事で成功するよりも、素敵な恋を手に入れるよりも、もっと簡単です。
現象世界の何かを手に入れるよりも、もっともっと簡単です。
だってあなたは初めからそれを持っているのですから。(笑)
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