死ぬということ

とりあえず大事なことは何かといえば、本来の自分でいることでしょう。

そして、本来の自分とは何かといえば、何もしない時にそうである状態、といえるでしょう。

そうすると、本来の自分でいられないということは、何もしないことがとても難しい、ということになります。

 

実際難しくないですか? 何もしないって。

常に何かをしようとしてしまいます。

何かしてなきゃいけないという強迫観念に駆られています。

何もしないですら「しよう」としてしまいます。

 

この、放置、放擲、許可、解放。

ありのままの自分、素のままの自分。

自分である以上、すでに「素」なわけですが、そこにまとわりついたいろいろによって、本来の素が覆い隠されています。

それは引き剝がすのではなく、何もしなければ自然と剝がれます。

 

何もしないとはつまり、「死ぬ」ということです。

生きながら死ぬ、ということです。

死んだら全てが無くなります。

死んだら「無」です。

 

「死ぬ気でやれば何でもできる」なんて言いますが、死んでもいいなら何だってできますね。

ただし、死んでもいいと思ってやると、本当に死んでしまうこともあります。(笑)

ですから、本当には死なないことをやりましょう。

実際、本当には死なないことの方が、遥かに多くあります。

 

本来の自分でいることは、とても気持ちがいいことです。

なぜなら、身にまとう全てを取っ払って、軽やかに舞うからです。

空気のように風のようになって、軽やかにスムーズに事が進行するからです。

「何でもいいし、どうでもいい」

そういうことです。

 

何でもいいしどうでもよければ、事は勝手に進行します。

いえ、事はいつでも勝手に進行していますが、それに対してあーだこーだとジャッジしているから、苦しさだったり不安だったりが巻き起こります。

事はいつでも勝手に進行しています。どう考えても。

ですから、それに対してあーだこーだ口を出しても無意味です。

そんなことは放っておけばいいし、放っておくしかありません。

 

「放っておく」

つまり、放擲です。

何でもいいのです。

どうでもいいのです。

物事に囚われすぎです。

物事はどうでもいいのです。

それがああだったり、こうだったり、そうだったりするのは、どうでもいいのです。

 

「どうでもよくない」と思っているから、あらゆる問題が引き起こされます。

問題はこっちが勝手に引き起こしています。

ソレに対して何もなければ、当たり前ですが何もありません。

どうでもよくないと思っているから、苦しさだったり、みじめさだったり、怒りだったり、無力感だったりが発生します。

 

本当にどうでもいいのです。目に見える全ては。

どうでもよくないですか? 本当に。

なんでそんなことに執心するのか、本当に謎ではないですか?

落ち着いて改めてよく見直してみてください。どうでもいいと思えるまで。(笑)

 

死んでもいいとは、そんな気分ですね。

明日死ぬとなったら、全てのことはどうでもよくなるでしょう?

そしてただ心安らかに、全てのものは美しく、あらゆることに感謝が湧き起こり、ただ目を細めて事の成り行きを見守るだけでしょう?

つまり死んでしまいなさいということです。気分的に。

 

もう死んでしまえばいいのです。

どうだっていいのです、全ては。

ただ美しいだけじゃないですか。

ただ美しく事が推移しているだけじゃないですか。

それ以上の何がありますか?

それでいいではありませんか。

 

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