本を読んでいました。
すると、「他者に勝つためにはこういう発想が大事です」みたいなことが書いてありました。
そこで疑問に思いました。
「なぜ勝つことが前提になっているのだろう」と。
みなさんはどう思われますか?
勝ちたいと思うのは当たり前ですか。
それとも、別に勝たなくてもいいですか。
…
これはよくある話ですね。
人は当然勝ちたいもの。
人は当然成功したいもの。
人は当然人気者になりたいもの。
いろんな前提が、説明不要の「当たり前」として、取り扱われています。
みなさんにとっても、それらは当たり前でしょうか?
そういった「当たり前」こそ、着目すべき部分です。
「当たり前」は当たり前ではないという話を、前回もしました。
当たり前は当たり前ではありません、冷静に考えたら。
それは人生のどっかの時点で当たり前になったものです。
初めから当たり前ではありませんでした。
なおかつ、自分の当たり前は他人にとっても当たり前とは限りません。
非常にあやふやなものです。
そんなあやふやなものを「いやそんなの当たり前じゃん」と固定化してしまったら、その時点でその人の成長は止まります。
思考停止です。
そこから先に進んでいきません。
「それって本当にそうなのだろうか?」と、疑問を残すことで、固定化を防ぐことができます。
「それはこう」と決めてしまったら、そこで終わりです。
頭の固い頑固オヤジの完成です。
常に柔軟に、固定化を避けながら、ゆるゆるとあらゆる可能性を残しておく。
それこそが健全であり、安全です。
柔よく剛を制す、です。
やわらかいからこそ、壊れません。
やわらかいからこそ、変化に対応できます。
やわらかいからこそ、どんな道も通り抜けられます。
つまり、「生きやすくなる」ということです。
固くなったものをほぐしていく過程。
「これはこう」と決めてしまったものをほどいていく過程が、解脱への道です。
解いて、脱ぐです。
…
とにかく、ありとあらゆる前提が巣食っています、私たちの頭の中に。
子供は学校に行くのが当たり前。
親は子の面倒をみるのが当たり前。
人に迷惑をかけないのが当たり前。
生まれた時からそんな風に考えていましたか?
それは人生のどこかで身に付けた「考え方」ではないですか?
どんな前提も、そもそもはありませんでした。
「何もない」こそが、唯一の前提です。
すべての前提は、その「何もない」という前提に発生した「子前提」のはずです。
すべての前提の親玉は「何もない」です。
子前提を親前提として取り扱えば、その「子ワールド」という小さな前提で生きることになります。
そこは親に比べたら、圧倒的に不自由なはずです。
小さな小さな世界です。
そこは世界の全てではありません。
井の中の蛙大海を知らず、です。
そんな小さな子前提を抜け出します。
抜け出し、抜け出ししていると、最終的に行き着きます。
親前提の「何もない」に。
そこは、解いて脱いで最終的に行き着く先。
つまり解脱です。
井の中の蛙、大海を知るの巻、です。
そこに行き着く、最初のスタートは何だったでしょうか?
それは「前提を疑う」ということでした。
「え?なんで勝たなきゃいけないの?」
「え?なんで学校に行かなきゃいけないの?」
と疑問に思ったわけです。
ちなみにそれは「行動」ではありません。
毎日学校に行くのはオカシイと思ったから、行くのやめますとか、そういう話ではありません。
行く行かないはどっちでもいいのです。
「それって別に、人が後から勝手に決めたことだよね」と、心に自由を獲得することが大事です。
行動や目に見えるレベルの話ではありません。
行動よりも、心に感じていることが大事です。
学校に行かないという選択をすることによって、心が痛むなら、それは本末転倒というものです。
私たちがやりたいのは、人生の改善ではなく、心の自由を獲得することです。
心の縛りを解き放つことです。
本来の自由を取り戻すことです。
なんで目に見える結果にこだわるのでしょうか?
それは「前提」という呪縛があるからです。
結果が全てという固い固い縛りがあるからです。
「何かでなきゃいけない」と思うのは、まだ前提に縛られている証拠です。
「何もない」が、最終的な真実です。
…
そもそも私たちは、何でもありません。
何でもないが、何でもないの中で、何でもないをしている。
それが真実です。
すべては宇宙に浮かんだ、あぶくのひとつです。
漂って、はじけて消える、あぶくです。
それが、見たままの世界です。
固定した何かなど、そもそもありません。
何でもないものを固定化しているのです、脳内だけで。
そもそも固定化できる何物もありません。
固定化できるのは、脳内においてだけです。
つまり、固定化したという「思い」がそこにあるだけです。
実際は何もありません。
何もありません、結局。
すべては「無」という親前提の子供です。
何もない空間に漂うあぶくです。
浮かんで漂って、はじけて消えるだけです。
なんにもないじゃないですか。
そうじゃないですか?
どんなにあせっても、ただのあぶくです。
どんなにあがいても、ただのあぶくです。
勝っても負けても、ただのあぶくです。
有名になっても転落しても、ただのあぶくです。
何がどう転んでも、全部あぶくです。
それが親玉ワールドの真実です。
親玉からみたら、全部フラットです。
全部がそこに含まれてしまう親玉一族という名のもとに、全部が一律です。
成功も失敗も一緒です。
勝ちも負けも一緒です。
「いや、勝ちも負けも一緒なわけない」という前提に生きるなら、それもいいでしょう。
ただ、その前提で生きるのってしんどくないですか?
勝ち組、負け組と分けて、常に勝ち組にいるように気を張っているのは疲れませんか?
前提のある生き方は、しんどくありませんか?
何とは言えない居心地の悪さ、微妙な違和感、スッキリしない感じ、得体のしれない疲労感。
それらは全部、「前提」のせいです。
何の前提もなければ、スースーとして何の違和感もなく、毎日グッスリ眠れるはずです。
後付けした違和感が、本来の自分自身の感覚とバッティングしているのです。
生まれたままの自分自身。
それが自分の本然です。
生まれた時は何もなかった。
それが本然というものです。
何もないのが本然とはすなわち、我々の本然は親玉ワールドということです。
本然が親玉ワールドなら、子ワールドという前提を親と見なすことは、どう考えても違和感があります。
「いや、なんか違う」と、本然の声が告げるわけです。
「自分は本来、そんなちっぽけな存在ではない」と告げているのです。
いろんな前提がインストールされてしまったのは、別に誰のせいでもありません。
「そうである」という実状が今そこにあるだけです。
大事なのは、今、どうするかです。
この仕組みが見えた今、どうするかです。
というわけで、この仕組みが見えた今、どうします?(笑)
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