ご存じでしたでしょうか、すべては終わるということを。
今まで頑張ってきたあれやこれや。
つらかったあれやこれや。
楽しかったあれやこれや。
全部終わります。
消えてなくなるわけです、全部。
あたかも初めから何もなかったかのように。
それは初めは何もなかったから、消えてなくなることができます。
つまり、初めから何も変わってないのです。
元の「無」が、ある形態をとり、そしてまた「無」に還った、ということです。
結局なんにも始まってないし、なんにも終わってません。
「何もない」がただあるだけです、いつでも。
「何もない」の見た目上の変化があるだけです。
元が「何もない」だからこそ「何か」に変化することができるわけですが、元が「何もない」わけだから、結局は常に「無」です。
その携帯電話も、あの青空も、彼女の心も、会社の昇進も、株価の変動も、世界情勢も。
全部は一律に「無」です。
全部無に帰することができるということは、そもそも全部が無だったということです。
なんにもないのですよ。
あったためしがないのですよ。
…
「無」の上に、世界は成り立っています。
すべては無のバリエーションです。
無のバリエーションだから、無限です。
有のバリエーションは有限です。
最初の「有」が全てを規定するから。
でも「無」は何の規定もないから、無限です。
全ての感情は、許されています。
無限なんで。
全ての行為も、全ての思考も許されています。
無限なんで。
全部「無」の一形態です。
いいも悪いも、優も劣も、全部ひっくるめて許されています。
全部は「無」において一緒だから。
それがそこにあるという時点で、それは一種の無のバリエーションです。
存在全てが、無のバリエーションです。
つまり、全部一緒です。
無は無限の形態をとります。
何しろ「無」なので。
なんにでもなれるわけです。
しかしその正体はいつでも「無」です。
それ以外はありません。
無か有かじゃありません。
無しかありません。
無が有の形態をとっているだけで、実質は無です。
全てが無です。
…
「なんでそんなことがわかるんですか?」
わかりません。(笑)
見えたことを言っているだけなので、わかるとかわからないとかじゃありません。
しかし、誰においても絶対にそのように見えるはずだとは思っています。
なぜならそれは当たり前だからです。
赤を見て赤という感じに近いからです。
その赤を見て、いろいろな感想が各個人の頭に浮かぶかもしれませんが、その赤がそのような赤に見えるという見え方は、誰が見ても一緒のはずです。
赤を見て「赤だね」と言っている感覚です。
世界を見て「無だね」という感覚は。
大多数の人は、赤を見て、その赤にまつわる個人的な感想を語っているように見えますが、個人的な感想云々の前に、赤は赤です。
そういう話です。
みなさんにとって、世界はああ見えたりこう見えたりするでしょうが、ああとかこうとかの前に、無は無です。
で、無だったら何なのかという話になりますが、無だったら無です。(笑)
「それ」でもないし、「これ」でもないということです。
世界は自分が思ってるようなものではない、ということです。
思っていることは、あくまで「思っていること」です。
それが世界の本当の姿ではない、ということです。
つまり、そんなものはありません。(笑)
みなさんが思っているようなものは、ありません。
それは「無」のひとつのバリエーションに過ぎず、いつでも終わるものであり、いつでも無限に変化するものです。
みなさんが見ていること、思い悩んでいること、そんなものはありません。
それらは全部「無」です。
それらは何でもないし、何でもいいし、何でなくてもいいものです。
全部がそうです、例外なく。
これは人生訓でもないし、幸せのレシピでもありません。
ただの見たまんまです。(笑)
そしてこれは、だれが見てもその通りに見えるはずです。
これはコーラに見えます、これはベンツに見えますという見え方は、表層を見た場合の見え方です。
無がまとっている現時点の有様を見た場合の話です。
コーラ以前、ベンツ以前。
コーラやベンツなる単語が生まれる以前、そもそも単語なるものが生まれる以前。
以前の以前、全ての前提。
それが「無」です。
つまり、コーラもベンツも、そもそも無のバリエーションのひとつであるという見え方が、最も単純な見え方です。
最も単純に見ると、全部同じに見えます。
なんだ、結局全部「無」か、と。
この話に意味はありません。
今話しているのは意味というバリエーションの話ではなく、いろいろなバリエーションに派生する前のオリジナルの話ですから。
そして究極のオリジナルとは「無」です。
意味でもないし、理屈でもないけど、この話がなにがしの「感覚」をもたらしてくれるのではないかとは思っています。
コメント
言葉そのものではなく感情を言葉にのせて伝える。
抽象から具象へ
頭の中が、想像力が
究極の抽象から究極の具象へその間を行ったり来たりしている
抽象は主に宗教や哲学、芸術において普遍的な要素だけを取り出す作業、
シンプルにする、抽象度を高める作業、これは難しい、
抽象度を高めるためには、抽出する領域を広げていかなくてはならない。
高くなるほどに理解するのが難しくなってくる。
現実世界ではそうした製品やサービスは手軽に活かせるようになる。広く活かせるようになる。
具象を高めていくとより具体的になっていく
これを体系化したものが学問と言われる。
具象化が進めば進むほど理解するのが難しくなっていき
一般的でなくなってくる。
現実世界ではそうした製品やサービスはほとんど知られず、利用もされない。
日本では平均的な日本人は大体その学問の入口遥か手前で学びを終えて
その先は損得と欲と疑心暗鬼うごめく現実社会に飛び込んでいく。